美濃路七宿のうち「起宿」

美濃路七宿

のうち起宿

愛知県一宮市起字下町

尾張国

「墨俣の渡し場」から

美濃路ー2の2
不破一色間の宿へ

美濃路七宿
(目次)へ

美濃路ー4
萩原宿 へ

 

番号 由緒地 地名
-01 いせみち道標 岐阜県羽島市正木町大浦
-02 金毘羅社 岐阜県羽島市正木町大浦
-03 起渡船場石燈台 岐阜県羽島市正木町新井
-04 船橋跡 岐阜県羽島市正木町三ツ柳
-05 起渡船場跡 愛知県一宮市起堤町
-06 人柱観音 愛知県一宮市起堤町
-07 旧湊屋文右衛門宅 愛知県一宮市起堤町
-08 宮河戸跡 愛知県一宮市起堤町
-09 船橋跡 愛知県一宮市起堤町
-10 被本陣 愛知県一宮市起西茜屋
-11 起本陣・問屋場址 愛知県一宮市起下町
-12 起脇本陣跡・旧林家住宅 愛知県一宮市起下町
-13 一宮市尾西歴史民俗資料館 愛知県一宮市起下町
-14 聖徳寺跡 愛知県一宮市冨田大堀
-15 駒場道道標 愛知県一宮市冨田立石
-16 冨田一里塚 愛知県一宮市冨田立石

 

 

木曽川渡舟

北緯

35

18

36.6

東経

136

44

17.6

美濃路で一番大きな川
揖斐川・長良川・木曽川で一番大きな渡船場
現在は濃尾大橋で気軽に渡れます
橋の長さは約750mあります。

美濃路はいよいよ美濃国(岐阜県)から尾張国(愛知県)へ

美濃路ー08/15
「越の渡し」からま「冨田一里塚」でをご案内します

美濃路全区間を15区間に分けてご案内します。
(本図は8区間目です)

 

濃尾大橋を渡り堤防を上流側へ曲がり220mほど進むと堤防を下る道が右側に出てきます。

美3-01 (おこし)
「定渡船場」跡

愛知県尾西市起

北緯

35

18

33.1

東経

136

44

31.8

堤防の上から金比羅社が見えてきます。

 金比羅社から木曽川を見ると新堤防は一段と高くなっています

                    説明
 このあたりは、みかし東海道美濃路廻りにあたり、徳川時代には木曽川の重要な渡船場で、上・中・下の三カ所の渡船場がありました。
 上は定渡船場で起字堤町にあり対岸の羽島市新井に達します。
 中は大明神社前なので宮河戸がある。
 下は将軍家または朝鮮信使が通行のとき船橋をかけたので、船橋河戸と呼ばれたものの遺跡である。
  愛知県指定文化財 史蹟 起渡船場跡〜定渡船場跡〜
 美濃路の渡船場には、上流から上・中・下の三ケ所の渡し場があり、定(じょう)渡船場、宮河戸(みやごうど)、船橋河戸(ふなはしごうど)と呼ばれていた。
 江戸時代初期から、渡船場には定渡船二艘・置船一艘・御召渡船一艘の合計四艘が尾張藩御船手役所から預けられ、他に鵜飼船や馬船も置かれ、人々の往来を支えた。
 旅人だけでなく、西国の大名の参勤交代や京都の公家の往来にも使用された。
 渡船場の実質的な管理は越の船庄屋が行い、船頭が二十人いた。
 昭和31年(1956)に現在の濃尾大橋が完成するまで、この渡船場は岐阜県と愛知県を結ぶ重要な交通手段であった。
                    (一宮教育委員会)

金比羅社の奥に人柱観音があります。

美3-02 人柱観音

愛知県尾西市起

北緯

35

18

33.4

東経

136

44

32.1

 慶長(1596〜1615)のころ、木曽川の分流、小信川の築止の難工事に人柱として濁流に身を投じたと伝えられる与三と、濃尾大橋の架橋工事で亡くなった3名をまつる人柱観音が昭和32年(1957)に開眼しました。

定渡船場跡から美濃路を東の四辻へ出ます。

この四辻の北東角に旧湊屋主屋があります。

美3-03 旧湊屋主屋

愛知県尾西市起

北緯

35

18

32.6

東経

136

44

32.3

  濃尾震災で倒壊をまぬがれた商家
 定渡船場の東の四辻の往還の角に、幕末に建てられた商家の旧湊屋文右衛門家の主屋があります。
 明冶24年(1891)の濃尾地震は、起宿のほとんどを全壊させましたが、この家は倒壊をまぬがれ、数少ない江戸ぞ代の建物です。

この四辻を南へ美濃路は延びます。

美3-04 中渡船場
宮河戸
(みやごうど)

愛知県尾西市起

北緯

35

18

22.1

東経

136

44

24.5

         愛知県指定文化財 史蹟 起渡船場跡〜宮河戸跡〜
 起渡船場には上・中・下の三ケ所の渡し場があった。
 大明神社の西にある木曽川を「宮河戸(みやごうど)、俗に「八百清河戸(やおせいごうど)」と称した。
 もとは御手洗場でもあったが、船荷の揚げ下ろしがされていた。
 対岸の渡船場は、美濃国中島郡新井村(現岐阜県羽島市正木町新井)の燈明河戸(とうみょうごうど)と呼ばれていた。
 宮河戸は、大藩の木曽川渡船など、金比羅社のある定渡船場(上(かみ)の渡し)だけでは渡船が困難な時に使用された。
 たとえば、文久元年(1861)の皇女和宮の下向は当初、美濃路通行が計画されており、その時この宮河戸の使用を計画された。
                            (一宮教育委員会)

「尾張名所絵図」後編巻之二「起川」

宮河戸は渡船(定渡船場)と船橋河戸の中ほどにあった。

ここは起渡船場、三ケ所のうち宮河戸と呼ばれ、かっては大明人社の御手洗に用いられ、水筋変更または通行混雑のとき渡船に使用された。

越のおおいちょう

宮河戸から美濃路を東へ進みます。

美3-05 本誓寺

愛知県尾西市起

北緯

35

18

28.2

東経

136

44

24.9

竜宮城のような寺
起ふきんは立派なお寺が多いように思います。

200mほど進むと堤防から下りてくる道と合流します。
この交差点を右(堤防上)へ10mほど上がると北側に渡船場河戸跡碑があります。

美3-06 下渡船場
渡船場河戸跡

愛知県尾西市起

北緯

35

18

18.1

東経

136

44

20.9

         愛知県指定文化財 史蹟 起渡船場跡〜船橋跡〜
 船橋とは、船を並べて繋ぎ止め、その上に板などを並べた橋である。
 美濃路では、木曽川・境川・長良川・揖斐川の渡船場に、朝鮮通信使、将軍といった特別な通行のためにのみ船橋が架けられた。
 木曽川の起の船橋河戸に架けられた船橋は、全長八百五十b前後、当時は「起川船橋」と呼ばれた。
 宝暦十四年(1764)之朝鮮通信使の来朝を最後に、架けられたことはなくなったものの、「尾張名所絵図」は、起川船橋を「海道第一の壮観」と称し、また、朝鮮通信使の一行も、船橋の荘大さを記録している。
                        (一宮教育委員会)

起川船橋略図 天和二年(1682

先ほどの交差点まで戻り美濃路は東へ進みます

起 宿

宿場の概要

尾張藩領、 宿高 不明、 人口 4、094人、 家数 887軒、 

旅籠 22軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、 問屋場 2ケ所、          

墨俣宿から 二里十七町二十五間(約9,8km)(東小熊一里塚・f不破一色一里塚)

萩原宿まで 一里(約3,9km)(冨田一里塚)

              起 宿−1
 起村は小村であったので、冨田・東五城・西五城・小信中島の村々を加宿とし、この起五か村で伝馬役・人足役の宿駅を負担しました。
 親村である起宿の天保12年(1841)の家数は230軒1033人で、本陣・脇本陣各1軒のほか、問屋が2か所、旅籠屋は22軒ありました。
 将軍・朝鮮通信使・琉球使節・茶壷・象などのほか、多くの大名の通行でにぎわいました。
              起 宿−2
 起宿は、木曽川の起渡船場のある宿場町で、水陸交通の拠点として賑わいました。
 尾張藩が編纂した地誌「尾張志」には、「絹屋起村より南東の方冨田村まで町屋引きつゝき、問屋、本陣等、萩原・稲葉と同しく賑わへり。江戸の方萩原より一里、京の方美濃の墨俣宿へ二里余の馬継なり。
 慶長五年(1600)関ヶ原御帰陣の伝馬継仰付られしより馬継となりて、将軍御上洛、西国の大名方、参府帰国京都大阪詰御役々の大名、御旗本、勅使、例幣使、又は、朝鮮、琉球の蕃使等、その外公私の旅人常に通行たゆることなく、にきわしき宿也」と記しています。
 宿場の長さは、10町6間(約1,102m)でした。
 天保十四年(1843)の起宿(宿役を負担した起五か村の合計)は、家数887軒、人口4,094人、旅籠屋22軒(大3軒・中14軒・小5軒)、本陣・脇本陣各1軒、問屋場2か所(本陣加藤家・永田家)でした。
 本陣は、加藤右衛門七を襲名し、問屋場を兼帯、脇本陣は林浅右衛門を襲名し、船庄屋と村庄屋を兼帯しました。
 起渡船場は、木曽川の美濃路の渡しで、川幅500間余(約909m)、尾張藩船手奉行の管轄下で、起宿の船庄屋が支配しました。
 定渡船2隻、置船1隻、御召渡船1隻の4隻で勤めました。
 大通行の際には、寄船と称し、近郷の川沿いの村々から徴収しました。
 江戸初期の将軍家や朝鮮通信使の通行の際架けられた船橋は、270隻以上の船をつなげた日本最大の規模でした。

 

美3-07 (ひらき)本陣跡

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

18

19.2

東経

136

44

53.6

                       昭和18年の説明板
                          旧披本陣跡
 文政八年(紀元2485)吉田氏ノ創立スル所起宿休泊ノ諸侯ガ異変ニ会フヤ其避難所トシテ設置セラレタルモノ。明冶三年廃止。         昭和十八年 起町

               藤本鉄石隠棲ノ址
 嘉永元年(紀元2523)ノ間、後ノ天誅組総裁藤本鉄石當処吉田世良宅ニ隠棲シ文墨ヲ楽シム。
 梁河呈巌、浮田篤斎、森春濤、藤井竹外等志士文人雲集シテ鉄石ヲ訪ヒ天下ヲ語レリ。 
                        昭和十八年 起町

                 披本陣跡
 参勤交代で美濃路起宿を通行する大名の宿泊所は本陣である。
 しかし、越宿の本陣に異変が発生した時に、其の避難所として吉田家が設けられてのが、この披本陣である。
 吉田家は、旧中島郡小信中島村の庄屋・年寄・留木裁許人を務めていた。
 御三家の一つである紀州藩が起宿に止宿する際は、吉田家が披本陣に指定されることが恒例であった。
 その始まりは文化八年(1811)と思われる。 なかでも弘化二年(1845)には、紀州藩主徳川斎順(なりゆき)の下向の残務処理をおこなっていた紀州藩士が、起宿に止宿していたとき、越宿の大火に遭い、本陣も類焼した。その間、吉田家が御用宿としての役割を担った。
 このため、紀州藩より「出精相働候由ニて金千疋」を賜っている。
 その他、天保七年(1836)尾張藩主徳川斎温(なりはる)の正室福君(はるぎみ)の下向、慶応元年(1865)十四代将軍徳川家茂(いえもち)の長州への御進発(しんぱつ)といった大通行において、吉田家が被本陣に指定されている。
 なお、明冶24年(1891)濃尾震災において、この地域は壊滅的な被害を被ったが、吉田家の門は壊れることもなく残った。

この付近は被本陣を守るかのように立派な寺があります。

美3-08 頓聴寺

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

18

20.5

東経

136

44

53.3

       一宮市指定文化財 書跡・典籍 扁額{萬松山」 伝 斯波義重筆
 頓聴寺山門に掲げてある木彫の学の原本である。室町時代の尾張国守護職にあった斯波義重(しばよししげ)(1371〜1418)の自筆とされる。
 義重は、越前と遠江(とおとうみ)の守護、室町幕府の管領(かんれい)を勤めた。
 『尾張名所絵図』後編巻之二の「萬松山頓聴寺」の項目に、「名書の印あり、実に能書にして古雅なり」とある。

被本陣の向かいに一宮市の名誉市民である三岸節子記念美術館があります。

三岸節子記念美術館

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

18

16.9

東経

136

44

52.0

敷地内にあった織物工場をイメージした建物に、廻りをヴェネチアをイメージした水路が取巻きます。

起宿へ入ってから100mほど進むと右側に「起宿本陣・問屋場跡」碑があります。

美3-09 起宿本陣・問屋場跡

愛知県一宮市起

北緯

35

18

12.9

東経

136

44

23.6

            愛知県指定文化財 史蹟 起本陣及び問屋場跡
 本陣とは大名、公家といった高貴な人々の休泊施設である。
 五街道やその付属街道の宿場に置かれ、美濃路の起宿には一軒置かれていた。
 起宿の本陣職は加藤家が代々「右衛門七」を名乗り、幕末まで世襲した。
 天明五年(1785)の書上げによれば、「間口二十四間半・奥行五十四間・家造建坪弐百六坪、外に高塀五十八間・門三箇所とある。
 江戸時代を通じて、宿泊した藩としては紀州徳川家、広島藩浅野家、徳島藩蜂須賀家、熊本藩細川家といった大藩も多い。
 江戸時代中期からは朝鮮通信使の昼食の場ともなった。
 問屋場は人馬や荷物の継立てなどを行なう場所で、これも加藤家が兼務していた。その後、永田家も問屋場として増設されている。
 また、江戸時代中期の十一代当主の加藤磯足は本陣職を務める傍らで、木曽川堤の自普請や村政にも力を尽くし、国学者本居宣長の高弟として学問にも熱心で、尾張を代表する文化人であった。
                        (一宮教育委員会)

起宿本陣跡碑の40mほど先の右側に脇本陣跡があります

美3-10 起宿脇本陣跡

愛知県一宮市起

北緯

35

18

11.9

東経

136

44

22.8

              愛知県指定文化財 史蹟 起脇本陣跡
 脇本陣は、街道の宿駅に設けられた本陣の補助的な宿舎で、副本陣にあたる。
 江戸時代、東海道宮(熱田)宿と中山道垂井宿を結ぶ美濃路七宿のひとつである起宿には本陣と脇本陣が各一軒、問屋場が二軒あった。
 寛永十八年(1641)起宿を利用する人馬が込み合ってきたので、脇本陣がこの地に新たに設置された。
 起宿脇本陣は、初め佐太郎一族(姓不明)が四代目まで継承したが、経営困難のため、享保五年(1720)林浅右衛門が譲り受けて以来、明冶三年(1870)の脇本陣の廃止まで歴代継承した。
 天保十四年(1843)の『美濃路宿村大概帳』には、建坪が約百三十六坪(約450平方b)と記録されている。
 また、幕末から明治に作成された間取図によると、主屋は往還に面して建てられ、中央に廊下を設けて、家族と宿泊者を分離できるようになっており、二階には天井が張られいない畳敷きの三室があった。また、母屋の北側には往還に面して門が備えられ、式台、玄関、広間、二の間、上段の間などがあった。
 この脇本陣の建物は明冶24年(1891)の濃尾地震で倒壊し、現在は大正時代に建てられた旧林家住宅が、一宮市歴史民俗資料館として利用されている。
                        (一宮教育委員会)
               脇本陣の庭
 江戸時代からあった脇本陣の庭を基として、昭和初年に当主林幸一氏(服部商店重役)が約十年をかけて作庭し、未完のまま昭和11年に53歳で没した。
 庭は心字池を中心とした回遊式庭園で、逍遥しながら様々に変化する風景を楽しめるように工夫されている。石組は宗風の禅様式が強く、個性の強い近代庭園の一つである。
                         (現地説明板より)
      尾張市歴史民俗資料館 別館 美濃路起宿脇本陣 旧林家住宅
 明冶24年(1891)の濃尾震災で、この場所にあった脇本陣林家の建物は倒壊しました。
 そののち建て直されたのがこの住宅で、江戸時代の伝統的な町屋建築の様式をよく伝えている。
 江戸寄りのほうに玄関入り口の潜り戸のついた大戸、正面一階の窓に取り付けられた連子格子(れんじごうし)、土間境に建つ大黒柱、根太天井、建ちの低い二階など、幕末の起宿に見られた町屋造りを偲ぶことができます。
 また、外回りをすべてガラス戸で囲むなど、文明の建材も巧みに取り入れられています。
                        (尾西教育委員会)

起宿脇本陣跡の南隣が尾西歴史民俗資料館です。

美3-11 歴史民俗資料館

愛知県一宮市冨田

北緯

35

18

09.4

東経

136

44

22.9

駐車場向かいにもあります

入場料・駐車料も無料です

船橋河戸の模型もあります
当時の宿の家並みの復元されています。

街道コラム

【象が来た】

 享保(きょうほう)十三年(1728)六月、清国(現在の中国)の商人の鄭太威により、八代将軍徳川吉宗への献上品として、交跡国(現在のベトナム)から牡(おす)牝(めす)の象2頭が長崎へもたらされました。
 牝の象は九月に長崎唐人屋敷で病死し、牡の象が翌十四年に江戸へ向けて陸路を旅立ったのでした。
 街道沿いの村々や宿場には、鳴り物の禁止など多くの規制がしかれ、象に対する細かな配慮を強いられました。
 京都では、御所で中御門天皇と霊元法王が象を見物し、『江戸名所絵会』には、従四位に叙せられ「広南従四位白象」と称されたとありますが、後世の伝聞によるもので、定かではありません。
 象の一行は、京都から中山道を通り、垂井宿から美濃路に入り、宮(熱田)宿〜東海道(浜名湖は北の本坂道を迂回)で江戸を目指しました。
 美濃路には、4つの大きな川に渡船場があり、象の渡し方に苦労させられました。
 象は船を嫌うので、川はなるべく浅瀬に迂回して歩いて渡らせる方針でした。
 しかし浅瀬のない美濃路の渡船場では、はじめ船橋を架ける指示がありましたが、日数がかかることもあり象船が用意されました。
 揖斐川と境川では、用意した象船に乗らず、歩いて渡りました。
 長良川では大変な苦労をして象船に乗せて無事渡りきりましたが、見物人が騒ぎ出して驚いた象が暴走し、象に乗っていた象使いの惣助が落ち、3両もなくしてしまいました。
 木曽川では、象使いの「てんてんほんほん」の掛け声でおとなしく象船に乗り、無事渡り切りました。

尾西歴史民俗資料館から美濃路を進みます

尾西歴史民俗資料館から360mほど歩道橋のある二股交差点を右へ進むと
織田信長と斉藤道三が会見したと伝えられる聖徳寺跡があります。

美3-12 聖徳寺跡
織田信長と斉藤道三の会見場所

愛知県一宮市冨田

北緯

35

17

47.0

東経

136

44

17.6

       市指定史跡 聖徳寺跡〜織田信長と斉藤道三の会見場所〜
 聖徳寺(しょうとくじ)は、はじめ尾張国葉栗郡(のち美濃国羽栗郡)大浦(おうら)郷(岐阜県羽島市)にあり、洪水や戦火で移転を繰り返しました。
 寺伝などによると、のち尾張国中島郡刈安賀(かりやすが=一宮市)へ、再び大浦へ戻り、その後ここ中島郡冨田(尾張国冨田)へ移りました。
 聖徳寺は、戦国時代の永正(えいしょう)年間(1504〜1521)にこの地に移ったといい、天文(てんぶん)年間(1523〜1555)に、尾張の織田信長と美濃の斉藤道三が会見した寺として知られています。
 道三は、信長に娘の帰蝶(きちょう=濃姫)を嫁がせており、信長が「大うちけ」かを確かめるために会見を申し入れました。
 信長はうわさ通りのうつけ者の姿で聖徳寺にあらわれましたが、正装に改めて会見に臨みました。
 道三はこの会見で信長の力量を知り、ふたりの同盟は確かなものとなりました。
 信長にとって、歴史の表舞台へ出るきっかけとなった大きな出来事だったといえます。
 また、豊臣秀吉の加賀野井城や竹鼻城攻めの本陣にもなりました。
 その後寺は、美濃国羽栗郡三屋(岐阜県笠松町)、尾張国春日井郡清洲(清洲町)を転々とし、さらに名古屋の東寺町(のちの東門前町)から松本町(のち富沢町、中区錦)へと移転し、現在は守山区白山と天白区八事山の2ケ所に分かれています。
                          (尾西教育委員会)

歩道橋のある二股交差点1,200mほどの右側に駒塚道道標があります。

美3-13 駒塚道道標

愛知県一宮市冨田

北緯

35

17

47.7

東経

136

44

17.3

船渡しへ五丁

駒塚道道標から50mほどの両側に一里塚があります

美3-14 冨田の一里塚

愛知県尾西市冨田

北緯

35

17

33.8

東経

136

44

39.9

西塚(左塚) 東塚(右塚)
「左塚」、「右塚」?
一里塚は一般に京に向かって左側を「左塚」、右側を「右塚」といいますが、
地元では方角を付けて「西塚」、「東塚」と呼ぶ場合もあります。

西塚(左塚)

東塚(右塚)

昭和15(1940)年頃の両塚
           国指定史跡 冨田一里塚
 一里塚は、道路の両脇に一里(約4km)ごとの目印として木を植えた塚をいいます。
 この起源は中国の魏の時代にありましたが、日本では織田信長や豊臣秀吉が一里塚を築いた記録があり、制度として確立させたのは江戸幕府でした。
 徳川家康は秀忠に命じて、慶長九年(1604)江戸日本橋を起点として東海道・東山道・北陸道に榎を植えた一里塚を築かせ全国に普及させました。
 榎を一里塚に採用したのは、根が深く広がって塚を固め、塚が崩れにくいためですが、松や椋(むく)などの例もありました。
 一里塚は、旅人にとっては里程や運賃の目安となり、日差しの強い日には木かげの休息所としても利用されました。
 東海道の宮(熱田)宿と中山道の垂井宿とを結ぶ美濃路には、13か所の一里塚が設置されていました。
 しかし今では街道の両側に原形をとどめるのは、ここ冨田一里塚のみとなりました。
 明冶九年(1876)の内務省達乙第120号で、目標などの有益な場合を除いて、有害無益になっている一里塚の廃棄と民間への払い下げが、府県に通達されました。
 冨田一里塚は廃棄されず、昭和三年(1935)6月28日に大蔵省から冨田の村社である神明社の所有地として払い下げられました。
 昭和10年(1935)5月31日、当時の起町長以下連署のもと史蹟指定を申請し、史蹟に指定されました。                        (一宮教育委員会)

江戸時代の主な街道渡美濃路

 

 

 

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街道コラム

【 船  橋 】

 中山道垂井宿から東海道宮(熱田)宿にいたる美濃路には、揖斐川(佐渡(さわたり)川)・長良川(墨俣川)・境川(小熊川)・木曽川(起川)の4つの大きな川があり、渡船を利用することになっていました。
 しかし、特別な大通行の際には、臨時に船橋が架けられました。
 船橋は、川に船を並べて綱などで船をつなぎ、板などを並べて通路をつけた橋で、浮いているので「浮橋」とも呼ばれます。
 美濃路の揖斐川から木曽川までの短い距離にある4つの渡船場に、船橋が同時に架けられたことは、全国的に見ても珍しい例といえるでしょう。 
 美濃路の船橋は、常時架けられてはいませんでしたので常設の富山の神通川の船橋のような風景画が残されていません。
 このため、構造などを簡単に描いた略絵図や記録類しか残されていないのは残念です。
 美濃路の船橋の架設は、初期の将軍(家康・秀忠・家光)、朝鮮通信使など特別な通行に限られ、大名や一般の旅人は渡船が原則でした。
 船橋の規模を船の数で比較すると、揖斐川80艘ほど、長良川100艘以上、境川28艘ほど、木曽川270艘以上でした。
 中でも木曽川は、日本最大規模の船橋で、一宮市尾西歴史民俗資料館では模型で再現しています。

 

美濃路ー2の2
不破一色間の宿 へ

美濃路七宿
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美濃路ー4
萩原宿へ

美濃路七宿のうち「起宿」