美濃路七宿のうち「不破一色間の宿」

美濃路七宿

のうち不破一色間の宿

 

岐阜県羽島市足近

美濃国

「墨俣の渡し場」から

美濃路ー2
墨俣宿 へ

美濃路七宿
(目次)へ

美濃路ー3
起宿へ

大垣からの「美濃路」「東海道」とを結ぶ交通量の多い街道でした。

番号 由緒地 地名
-2−01  西方寺への道標(1) 岐阜県羽島市足近町2丁目
-2−01ー2 阿遅加神社 岐阜県羽島市足近町直道
-2−02   西方寺 岐阜県羽島市足近町直道
-2−03ー1 美濃路消滅地点 岐阜県羽島市足近町2丁目
-2−03ー2 美濃路出現地点 岐阜県羽島市足近町3丁目
-2−04   西方寺への道標(2) 岐阜県羽島市足近町南宿
-2−05    間の宿跡 岐阜県羽島市足近町南宿
-2−06    及が橋 岐阜県羽島市足近町7丁目
-2−07    及が橋石灯籠 岐阜県羽島市正木町須賀
-2−08    不破一色一里塚跡 岐阜県羽島市正木町不破一色

 

 

美濃路ー06/15
「墨俣の渡し場」から「不破一色の間の宿」までをご案内します。

美濃路全区間を15区間に分けてご案内します。(本図は6区間目です)

 

長良川渡船

 

北緯

35

21

19.6

東経

136

41

26.4

 

美2-2-01墨俣の渡船場跡

羽島市茶屋新田

北緯

35

21

20.8

東経

136

41

35.8

   
   
   

 

 

美2-2-02小熊の渡船場跡

岐阜市日置江

北緯

35

21

10.3

東経

136

41

48.7

小熊の渡し
 境川のこの辺りは小熊川と呼び、定渡船1艘に船頭7人がおり、大きな行列の通行には舟橋が架けられました。

 

   

 

   

 

美2-2-03 秋葉神社

羽島市小熊町東向

北緯

35

21

06.3

東経

136

42

03.7

西小熊の太神宮と秋葉神社
 堤防上に大きなモミジと太神宮と刻んだ石燈明があります。
   
   

 

美2-2-04 県道157号線横断

羽島市小熊町西小熊

北緯

35

21

05.4

東経

136

42

11.6

   
   

美2-2-05 東小熊・西小熊
            一里塚跡

羽島市小熊町西小熊

北緯

35

21

10.6

東経

136

42

21.1

美濃路一里塚
「岐阜市高桑」の対岸「羽島市小熊町1丁目」の間を流れる「境川」
の羽島側には「美濃路」があります。
この間に江戸時代の一里塚が残っています。


小熊一里塚碑

 堤防上に大きなイチョウがあり、「一里塚碑」があります。
 かって東小熊村に右塚(北塚)、西小熊村に左塚(南塚)があり、
両方に榎が植えられていましたが、現在は南側にイチョウが植えられ、塚はありません。
 丁度画像を撮りに行った日は風が強く写真を撮っていると銀杏の実がぽとぽとと落ちてくるので、バケツに一杯ほど拾ってきました。

 

美2-2-06 美濃路案内板

羽島市小熊町東小熊

北緯

35

20

56.6

東経

136

42

31.1

 
   
「美濃路」案内板
 しばらく進むと美濃路の案内板があります。
 更に進むと

東小熊の「一里塚碑」

 堤防上に大きなイチョウがあり、「一里塚碑」があります。
 丁度画像を撮りに行った日は風が強く写真を撮っていると銀杏の実がぽとぽとと落ちてくるので、バケツに一杯程度拾ってきました。

美濃路から橋を北へ渡り「高桑城址」をご案内します。

美2-2-07 東小熊東境川橋

羽島市小熊町東小熊

北緯

35

20

53.3

東経

136

42

41.6

美濃路からこの橋を渡ると対岸の堤防上の路へ出ます。この路は竹鼻街道です

橋の北東袂に地蔵堂があります。

地蔵堂の東に「善覚寺」があります

善覚寺から50mほど東の堤防上に高桑城址案内板があります。

美2-2-08 高桑城址

羽島郡柳津町高桑

北緯

35

21

00.1

東経

136

42

47.5

                 高桑城址
 鎌倉時代初め(1190年代)から永禄七年(1567)まで、ここに高桑城がありました。
 この城は土塁で築かれ、周囲は役400m、その北西には御館様と呼ばれる城主高桑氏の住居がありました。
 城は、大永(たいえい)七年(1527)留守役の武山氏に渡り、永禄七年(1567)織田信長の手によって落城しました。
 今は、堤外に土盛りが一部残っており、城石は慈恩寺の観音堂の石垣に使われいます。
                       (岐阜市文化財審議会)

高桑城址から東へ150m程の堤防左(北)に三界萬霊地蔵尊石碑があります。

美2-2-09 三界萬霊地蔵尊

羽島郡柳津町高桑

北緯

35

21

03.9

東経

136

43

02.4

地蔵尊には「三界萬霊」と彫られています。

石垣の左の石が道標になっています
「左 竹鼻路 弘化三丙牛年」
とあります。
(五年と読めますが丙牛年は三年1846年です)

先ほどの橋まで戻り西方へ300mほどに高桑桜並木があります。

美2-2-10 高桑桜

羽島郡柳津町高桑

北緯

35

21

03.9

東経

136

43

02.4

 

                 高桑星桜
 花びらがはっきりとした星形に咲く珍しい桜です。(一本づつに名前が付いています)

高桑桜並木が終わる頃に水天宮があります。

                 水天神社
 この神社の創建は、応仁二年(1468)で、西方鎮護と安産・治水の神様が祀られています。
 昔は水天宮または水上様と呼ばれ、洪水で流されたりして、この付近を転々とし、昭和50年の道路工事により現在の位置に移されました。
                       (岐阜市文化財審議会)

再び美濃路へ戻ります。

橋の東に東小熊地蔵堂があります。

美2-2-11 東小熊地蔵

羽島市小熊町東小熊

北緯

35

20

52.6

東経

136

42

42.1

 

美2-2-11 親鸞聖人御旧跡碑

羽島市足近町直道

北緯

35

20

49.6

東経

136

43

00.1

中央の桜の陰に碑はあります

縦是東五丁の文字

 

美2-2-12 阿遅加神社

羽島市足近町直道

北緯

35

20

47.1

東経

136

43

16.5

 

美2-2-13 足近北宿の
道標と地蔵堂

羽島市足近町南宿

北緯

35

21

07.6

東経

136

43

57.4

 

右 寿のまた道(墨俣道)
左 竹がはな道(竹鼻道)

 
道標
 「西方寺」の前を通り境川の堤防に上がると道標があります。
位置が変わったのか「左たけはな道、右すのまた道」と左右が反対です。
追分け地蔵
 道標の反対側には今にも壊れそうな小屋に中に古びたお地蔵様が二体並んでお祀りしたありました。

 

美2-2-14 足近直道の
地蔵堂

羽島市正木町須賀

北緯

35

19

56.8

東経

136

43

48.8

   
   

 

  坂井の道標と辻地蔵
 別の道から堤防に上がった所に西方寺への道標が立ち、脇に「右、笠松、西方寺」「すぐ墨俣、大垣道」と刻まれた辻地蔵二体があります。
またお地蔵様
 先のお地蔵様より立派なお堂の中に安置されています。
 脇に大きな木が茂っています。

堤防を更に西に進み西小熊まで来ると、太神宮と秋葉様があり、まもなく「小熊の渡し跡」へ出ます。

 「小熊の渡し」蹟は河川改修などで昔の面影はありません。
ここから長良川を渡ると「墨俣宿」へ入り「美濃路」は更に進んで「垂井宿」へと向かいます。
また、そこから美濃路と言うよりも、鎌倉時代の官道「鎌倉街道」として保存されています。
詳しくは「中山道探訪14-3”鎌倉街道と墨俣一夜城”」で紹介します。

 

 

 

 

美2-2-15 親鸞上人の旧跡
西方寺

羽島市足近町直道

北緯

35

20

52.8

東経

136

43

38.9

親鸞の旧跡西方寺
 羽島で最古の寺。
 もと太子堂でしたが後に親鸞上人に教えを受け浄土真宗に改めました。
 多数の寺宝があります。

阿遅加(アジカ=足近)神社
 式内社で祭神は日本武尊。近代は八剣宮と言われています。
 社内に雨石があり、雨乞いに参拝されます。

 

美2-2-16 足近町
消えた美濃路

(羽島市足近町)

北緯

35

20

39.3

東経

136

43

09.5

   
   

 

 

 

美2-2-17 不破一色
現れた美濃路

羽島市足近町南宿

北緯

35

20

29.5

東経

136

43

29.8

   
   

夕日の美濃路

美2-2-18 不破一色
親鸞上人縁起

羽島市足近町南宿

北緯

35

20

28.3

東経

136

43

37.1

   
間の宿」前の追分け
 加藤酒店の前には親鸞上人縁起の古い道標があります。
 追分けには個人の屋敷内に「円自墓」と書いたこけむしたお墓があります。
 なにか由来があるでしょうが聞く人もないので、そのまま進みました。
美濃路の美濃区間の順路
 
出発点は
おこしの渡し」です
 渡船場は羽島市正木町新井です。 ここから街道は北上します。
渡船場は河川改修などで位置が変わっていますので「濃尾大橋」上流50mにある写真の灯籠下の道を堤防から下り県道165号線に出たら横断します。
 横断したら1本目の道を北へ向かいます。車1台がやっと通れる幅で、緩やかにカーブしながら北上します。
(これが鎌倉街道の名残の道です)
 羽島市坂丸付近まで道に逆らわずに走ると正木小学校横へ出ます。
「一里塚跡」
 ここに「一里塚跡」があります。(羽島市正木町不破一色六六番地)
 そこから街道は北上し名鉄竹鼻線「須賀(すか)」駅付近の踏切を渡る手前の五叉路でまちがえないように真っ直ぐに交差点を着ききります。
 交差点を渡るとしばらくぐにゃぐにゃ曲がりながら進むと”羽島市役所足近(あじか)出張所”前へ出ます。
間の宿 
 そこが「間の宿」(あいのしゅく=宿と宿の間隔が長いと旅人が大変なため立場(たてば=茶屋などの休憩できるところ)などをつくった、集落)です。
 「間の宿」は今は加藤酒店となっていますが昔の門構えだけは残っています。
 ここで一息入れて下さい。

 

美2-2-19 不破一色「間の宿」

羽島市足近町南宿

北緯

35

20

27.8

東経

136

43

37.5

 

「間の宿」(あいのしゅく)
 羽島市役所足近出張所向かいが宿と宿の間にある
休息所「間の宿」。今は加藤酒店となっています。

 

美濃路ー07/15
「不破一色の間の宿」から「燈明渡船場跡」までをご案内します

美濃路全区間を15区間に分けてご案内します。
(本図は7区間目です)

 

美2-2-20 正木町須賀の
金比羅山大権現灯台

羽島市正木町須賀

北緯

35

20

02.8

東経

136

43

46.8

金比羅山大権現灯台
美濃路を南から来ると分かりやすいが、北から来ると民家の陰で見過ごします。

南山之石麻冶為燈台唯不朽庶其永明   
文政九年(1826)龍集丙戌夏六月
                 後藤機弁書

 

 

美2-2-21 消えた街道
 この前後の道はいかにも美濃路(鎌倉街道)の面影を残した風景を残していてくれます。
 「間の宿」を過ぎて更に街道が北西へすすみます。
 県道151号線に出る手前の左側に立派な「金比羅宮灯籠」が立っています。
 県道151号線から先が問題です。
 完全に街道が消えています。
 これは新幹線「岐阜羽島政治駅」を作る際に国からの補助金を豪勢につぎ込んだ道路(151号線)や圃場整備を優先させたため数百m先の「西方寺」までは碁盤の目に区画されています。

金比羅宮灯籠

 

美2-2-22 正木須賀本村      交差点

羽島市正木町須賀

北緯

35

19

56.8

東経

136

43

48.8

   
   

 

美2-2-23 不破一色一里塚跡

羽島市正木町坂丸4丁目

北緯

35

19

38.6

東経

136

43

58.1

不破一色の「一里塚跡」
 正木小学校の西門手前の左側にあります。
 かっては径9m、高さ3mの土盛りがありましたが今は面影もありません。

美2-2-24 正木大浦の
追分地蔵堂道標

羽島市正木町大浦

北緯

35

19

21.9

東経

136

44

00.4

   

 

美2-2-25 正木大浦の
秋葉神社

羽島市正木町大浦

北緯

35

19

19.2

東経

136

43

59.7

 
   

 

   

 

美2-2-26 正木大浦の
いせみち道標

羽島市正木町大浦

北緯

35

19

03.6

東経

136

44

00.0

   
  左 おこし路 右 いせ路

 

 

美2-2-27 正木大浦の
金刀比羅神社

羽島市正木町大浦

北緯

35

19

03.0

東経

136

44

06.7

 

 

美2-2-28 正木大浦の
堤防上り口

羽島市正木町大浦

北緯

35

19

02.7

東経

136

44

07.7

 

 

美2-2-29 起渡船場の
石 灯 台

羽島市正木町新井

北緯

35

18

46.1

東経

136

44

00.3

 
 
   
新井の起渡船場跡
 濃尾大橋袂の上流側50mくらいにあります。
 明和七年(1770)に建てられた石灯台は、
 口碑によると竹鼻出身の力士が、夜渡船でここを通って暗くて大変難儀をしたので、灯台と油代として田二反(1990u)を併せて寄進したものだそうです。
 昭和31年に濃尾大橋が架けられた際、少し上手に、旧堤上から移されて現在に至っています。
(上流に尾濃大橋があります間違わないように)
なぜ「於こし川渡し」か
 美濃「新井」の渡船場も尾張藩の御船手奉行の支配下に置かれ渡し船は常時二艘備え、旅人の多いときに備えてあと一艘用意を命ぜられていました。
 重要な交通機関は幕府に近い藩により管轄されていました。
碑文
 この石灯台には、京伏見の人で萩生租授や太宰奉台に学んだ龍公美りゅうきみよし=彦根藩に仕えた文学者1714〜92)の漢詩が刻まれています。

堤防へ上がり南へ向かい濃尾大橋たもとの信号を横断して更に南へ進み最初の堤防を下る道を西へ下ります。
堤防を下りてからさらに南へ信号から430mほどの道の突き当りを西へ、すぐに北へ曲がり100m程の右側に
「船橋跡」碑があります。

美2-2-30 船橋渡舟場跡碑

北緯

35

18

27.3

東経

136

43

51.6

                船橋とは?
 木曽川の起渡しは大変賑わっていました。このため渡し場は3ケ所設けられており、
 一番上流の渡し場を「定渡船場」といい一般の渡船場でした。
 中間の渡しを「宮河戸」(みやごうど)といい定渡し場が忙しい時や大藩の渡河などに使用されました
 の渡し場を「船橋河戸」といい将軍や朝鮮通信使などの渡河時に船を川に並べ、其の上に板を敷いて道のようにして行列のまま渡れるようにするのが「船橋」といいます。
 その渡しが架けられた跡がここです。

先の濃尾大橋たもとの信号までもどります。

美2-2-31 燈明渡舟場跡

北緯

35

18

36.6

東経

136

44

17.6

燈明渡舟場跡
岐阜県側の渡し場を「燈明渡舟場」と呼んでいました。

濃尾大橋を愛知県へ渡ります。   

美濃路ー2
墨俣宿 へ

美濃路七宿
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美濃路ー3
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美濃路七宿のうち「不破一色間の宿」