美濃路七宿編のうち「大垣宿」

美濃路七宿

のうち大垣宿

岐阜県大垣市

美濃国

美濃路七宿
(目次)へ

美濃路ー1の2
(大垣宿続編)へ

この頁は垂井宿東の美濃路と中山道の追分から、美濃路を名古屋宮宿に向かって大垣宿までご案内します。

美濃路は江戸時代のバイパス道路
美濃路は中山道と東海道を中山道垂井宿と東海道宮宿で結ぶ脇街道で、
危険視された海上七里の渡しや物騒な鈴鹿峠を避けて通る旅人に人気がありました。

この美濃路を7区間に分けてご案内します。
               「美濃路ー1大垣宿」
(中山道垂井宿追分〜大垣宿)  
        「美濃路-1-2大垣宿続編」(ミニ奥の細道・大垣藩史跡)                     
           「美濃路ー2墨俣宿」(不破一色・間の宿)              
           「美濃路ー3起宿」            
           「美濃路ー4萩原宿」
           「美濃路ー5稲葉宿」              
           「美濃路ー6清洲宿」            
           「美濃路ー7名古屋宿」(名古屋宿〜宮の渡し) 

「美濃路−1大垣宿」掲載項目表

番号 由緒地

地 名

番号 由緒地 地 名
−01 美濃路追分道標 岐阜県不破郡垂井町
   東(あずま)2丁目
−28

大垣宿問屋場跡

大垣市竹島町

−02 垂井(綾戸)の松並木 岐阜県不破郡垂井町 −29 本町道標 大垣市本町2丁目
−03 熊坂長範物見の松と綾戸古墳 岐阜県不破郡垂井町綾戸 −30 大垣宿脇本陣跡 大垣市本町2丁目
−04 美濃路石碑 大垣市長松町(国道21号) −31 大垣城 大手門跡 大垣市郭町東2丁目
−05 美濃路消滅区間
(国道21号「綾戸口」〜長松町宮の前)
大垣市長松町宮の前 −32

大垣城下の城門跡の
       七口御門跡

大垣市郭町東2丁目
−06 長松町の道標 大垣市長松町744 −33

大垣城

大垣市郭町2丁目
−07 南宮大社鳥居跡 大垣市長松町 −34 大手いこ井の泉 大垣市郭町1丁目
−08 平林荘跡 大垣市荒川町366 −35 小橋口門跡 大垣市郭町東1丁目
−09 長松城址(荒尾小学校) 大垣市荒川町305 −36 大垣宿高札場跡 大垣市本町1丁目
−10 県道31号合流〜大谷川橋渡橋 大垣市久徳町424 −37

小原鉄心邸跡

大垣市郭町東1丁目
−11 長松の谷汲道の道標 大垣市鈴静里町903 −38 御朱印地遮那院跡 大垣市清水町
−12 美濃路消滅地点 大垣市久徳町村前 −39 東総門跡 (名古屋口門跡) 大垣市東外側町1丁目
−13 美濃路出現地点(太平洋工業門前) 大垣市久徳町横枕 −40

栗屋公園自噴泉

大垣市栗屋町
−14 西宮大神宮燈台 大垣市久徳町村前 −41 こんにゃく屋文七掘抜井戸跡 大垣市岐阜町
−15 久徳一里塚 大垣市久徳町村前 −42 岐阜町道標 大垣市錦町
−16 瓊瓊杵(ににぎ)神社 大垣市久徳町村前 −43 江馬蘭斎蘭学塾跡と墓 大垣市藤江町2丁目
−17 塩田の常夜灯 大垣市静里町船越 −44 三塚の一里塚跡と 御使者場跡碑 大垣市三塚町
−18 若森城址 大垣市南若森 −45 三塚城址 大垣市三塚町城田
−19 大垣市船町高橋信号交差点 大垣市船町高橋 −46A 美濃路消滅(三塚一里塚付近から) 大垣市三塚町
−20 船町中組常夜灯 大垣市船町3丁目 −46B 美濃路出現点(JA三城支所まで) 大垣市三塚町
−21 史蹟奥の細道むすびの地 大垣市船町4丁目 −47 今宿の枡形 大垣市今宿2丁目
−22 船町港跡と住吉燈台 大垣市船町4丁目 −48 今宿城址 大垣市今宿
−23 小原鉄心の墓(全昌寺) 大垣市船町4丁目 −49 小野城址 (専勝寺) 大垣市小野  専勝寺
−24 船町道標 大垣市船町1丁目 −50 鎌倉街道 小野の長橋跡 大垣市小野町

大垣宿

−51 教如上人御旧址 大垣市小野町1丁目
−25 美濃路大垣宿入口 
西総門跡(京口御門跡)
大垣市船町1丁目 −52 佐渡(さわたり)の渡し場
        「東町の常夜灯」
大垣市東町1丁目
−26 槌谷柿羊羹俵町本舗 大垣市俵町 −53 佐渡の渡し跡(揖斐川) 大垣市東町
−27 大垣宿本陣跡 大垣市竹島町 −54 揖斐川渡船)

次は大垣城下町の史蹟をご案内します。

番号 大垣城下史蹟 地名
美1-−01 

大垣藩校敬教堂跡

大垣市東外側町2丁目
美1-−02 

大垣八幡神社

大垣市西外側町1丁目
美1-−03 

戸田氏菩提寺円通寺

大垣市西外側町1丁目
美1-−04 

飯沼慾斎邸跡

大垣市俵町

垂井宿「美濃路追分道標」からスタートします。 

 

美濃路ー01/15
「垂井宿追分道標」から東に向かって綾戸、国21「長松町東」信号までご案内します。
大垣宿へ入るまでに2か所道路改修と圃場整備で美濃路が消えています。
しかし、美濃路の基は鎌倉と京都を結んだ官道「鎌倉街道」を改修した道です。
そのため鎌倉街道の面影は一部に残っています。お楽しみに

美濃路全区間を15区間に分けてご案内します。

では垂井宿追分道標から東へ美濃路を出発します。

美1-01垂井宿美濃路追分道標

不破郡垂井町垂井 東(あずま)2丁目

北緯

35

22

11.9

東経

136

32

00.8

追分道標の横にある標識

左が中山道 右が美濃路 手前が垂井宿へ

では美濃路を起(おこし)の木曽川渡船場まで辿ります。

この付近の美濃路は当時より広くなっています。

700mほど進むと松並木が見えてきます

美1-02 綾戸の松並木

不破郡垂井町綾戸

北緯

35

22

10.6

東経

136

32

20.1

            「美濃路」の一部は「鎌倉街道」
 「美濃路」大垣、墨俣、起、萩原、稲葉、清洲、名古屋七宿を経て東海道の熱田宿(宮宿)で結ばれます。
 平安時代半ばの「更級日記」にも、「墨俣」から「野上」(垂井と関ヶ原の間で松並木が残っているあたり)を通る場面が出ているように、鎌倉時代以降、京都と東国を結ぶ重要な交通路となっていました。

松並木は現在47本が残り待ちしての文化財
近年の「松食い虫」による被害で松がだんだん少なくなっています。

松並木が終わって300mほどでJR東海道本線の踏切があります。
その手前を左(北)へ入る道があり、その道を入ります。

踏み切り手前40mに北へ入る小道があります。  美濃路を左(北)へ入ると120m先に垂井町立東小学校があります。学校に沿って左へ進むと綾戸古墳があります。

美1-03 熊坂長範物見松

            あった綾戸古墳

不破郡垂井町綾戸6丁目

北緯

35

22

11.9

東経

136

33

05.4

               熊坂長範物見の松
 12世紀の中ごろ(義経が活躍した時代)にこの地方に盗賊の頭「熊坂長範」が旅人を苦しめていました
 盗賊「熊坂長範」はこの「綾戸古墳」の松に登り旅人の来るのを待ち構えたと伝えられています。
 「中山道」(当時は「東山道」)までは700m「東海道」(江戸時代の美濃路)までは300m

                  綾戸古墳
 綾戸古墳は平地に位置する古墳時代中期以降(五世紀末から六世紀初頭)の比較的大規模な円墳で、西側に周湟(しゅうこう=堀)の跡を残しており、規模から見てこの地方を治めていたかなりの豪族の墓と 考えられます。
 この古墳は周湟の残る町内唯一の古墳として古代の古墳研究上貴重な遺構であり、由緒ある遺構です
                          (垂井町教育委員会)

   熊坂長範物見の松
 十二世紀の中ごろ、熊坂長範という大盗賊がこの地方を中心に荒らしていました。平尾の東の熊坂長範馬隠しの場と言われている古墳に馬を隠し綾戸の松ノ木から中山道や美濃路の旅人が通るのを物見させていたことからこの松を「熊坂長範物見の松」と言われています。

場所は「垂井東小学校」西側にいあります。

             謡曲」熊坂」と長範物見の松
 熊坂長範は平安末期の大盗賊と言われ美濃国赤坂で、鞍馬から奥州へ下る金売り吉次一行を襲い同行していた牛若丸(後の義経)にかえって討たれたと言う伝説的人物ですが、是を脚色したのが、謡曲「熊坂」です。
 牛若丸が盗賊を斬ったことは「義経記」などにも書かれていますが、これ等を参考にしてえがかれたのが謡曲でしょう。
 その長範がめぼしい旅人を物色するため様子をうかがっていたと言うのが、この一本の松で「物見の松」といわれたいます
 松のあるところは中山道と美濃路が左右に走る中間にあり、昔は草ぼうぼうの青野ケ原だったと言われています。
                            (謡曲史跡保存会)

「綾戸古墳」はいろいろ物語があって沢山の碑があります

美濃路へ戻って、さらに東へ460mほど進むと六社神社が左側にあります。

六社神社

不破郡垂井町綾戸

北緯

35

21

59.0

東経

136

33

26.3

六社神社から230mほど進むと左側の民家に美濃路の石碑があります。

美1-04 美濃路石碑

不破郡垂井町綾戸

北緯

35

21

55.8

東経

136

33

34.9

この辺りの美濃路は狭いので気を付けてください

六所神社から500mほど進むと国道21号線の「綾戸口」信号交差点へ出ます。
このから先は国道21号線の整備で美濃路が消滅しました。
次に美濃路が現れるのは国道21号線を東へ660mほど進んだ「長松町」東信号からです。

美1-05 美濃路消滅区間
    (国21「綾戸口」から)

不破郡垂井町表佐

北緯

35

21

51.3

東経

136

33

44.5

美濃路◎消滅点
国道21号信号「綾戸口」交差点から

 美濃路は国道21号信号「綾戸口」を東へ曲がります

美濃路◎消滅区間
国道21号信号「綾戸口」交差点から、長松町宮の前まで860m

 美濃路は国道21号「長松町東」信号あたりで南へ曲がっていたようです。 

信号を南へ曲がった辺りが美濃路跡

曲がって直ぐ東へ曲がっていましたが
今は私道となっています。

次の四差路を東へ曲がります。

東へ170mほど進んで突き当りの道が美濃路です。

美1-05 美濃路出現点
      (長松町宮の前)

大垣市長松町宮の前

北緯

35

21

52.1

東経

136

34

18.0

南へ曲がると美濃路が始まります。

次は「長松町の道標」からご案内します

美濃路02/15
 「谷汲の道標」先から一部消えた美濃路を県道31号線に代えて歩き、太平洋工業守衛室前へ出ます。ここから美濃路をたどり杭瀬川を渡り大垣宿に入ります。

美濃路全区間を15区間に分けてご案内します。(本図は2区間目です)

南へ360mほど進むと三叉路があり、南西角に道標があります。

長松町付近の詳細地図を掲載します。

美1-06 長松町の道標

大垣市長松町二ノ丸

北緯

35

21

52.1

東経

136

34

28.0

縦是 南宮社近道

裏側は判読不能でした
垂井 京都
大垣 岐阜
昭和五年二月 長松町青年団

この三叉路を西へ50mほど進むと南宮大社鳥居跡があります。

美1-07 南宮大社鳥居跡

大垣市長松町小人町

北緯

35

21

40.3

東経

136

34

27.0

谷汲道で谷汲へ参拝する人のためにあったといいます。
昭和19年の東南海地震で倒壊したそうです。

この鳥居の前を西へ50mほど進むと平林荘跡があります。

 

美1-08 平林荘跡

大垣市長松町二ノ丸

北緯

35

21

39.8

東経

136

34

23.7

            岐阜県史跡 平林荘跡
 ここは、蘭方医飯沼慾斎が天保3年隠退後30年にわたって植物を研究した別荘跡である。
 邸内に庭園式植物園を営み伯来種をはじめ草木数百種を植えた。
 その著「草木図説」はわが国最初の科学的植物図鑑である。
                        (大垣教育委員会)
             大垣市重要文化財 平林荘正門
 この門は戸田氏寛が維新後ここに隠居し、大垣城七口門の一つを移築したものである。                        (大垣教育委員会)

平松荘跡を西へ220mほど先の大垣市立荒崎小学校校門西に長松城址があります。

美1-09 長松城址

大垣市長松町堀

北緯

35

21

38.8

東経

136

34

16.6

長松城址の詳細は「大垣城周辺の城跡」「16.長松城址」を参照

長松城址から東へ、長松町道標まで戻り、美濃路を南へ220mほど進み県道31号線手前で
美濃路は東へ(現在は堤防で行き止まりですので県道31号線へ出て大谷川橋をわたります)

正面が県道31号線です

美1-10 県道31号線合流

大垣市長松町小人町

北緯

35

21

31.9

東経

136

34

28.4

大谷川に架かる大谷川橋を渡ります。

美濃路は大谷川橋を渡って直ぐ北へ入り、東へ進む道です。

白髭神社前を通り200mほど進みます

道の突き当たり手前の北西角に地蔵堂があります。

美1-11 長松の
谷汲道の道標

大垣市荒川町木ノ本

北緯

35

21

31.8

東経

136

34

39.7

谷汲の文字が見えます

碑の前の北へ延びる道が谷汲道です

                               谷汲道の道標
 旧幕府領荒川村の四ツ辻の北西角に石灰岩の「谷汲道」の道標があり、北に進めば荒尾を経て赤坂から谷汲巡礼街道に通じていました。
                                           (一宮市尾西歴史民俗資料館)

谷汲道はここから北へ大垣市荒尾町のJR東海道本線を横断する一部が消滅していますが、
赤坂宿の四辻を通り、揖斐川町もほぼ完全に「谷汲山華厳寺」まで28kmを辿ることが出来ます。

「谷汲の道標」方東へ130mほどで美濃路は消えます。

美1-12 美濃路消滅点
(谷汲道の道標から)

大垣市久徳町村前

北緯

35

21

30.8

東経

136

34

49.2

「谷汲道の道標」から東へ130mほどで美濃路は消えます

次は美濃路が現れる地点まで県道31号線を辿って東へ進みます。

◎消滅点 大垣市荒川町旧谷汲道分岐点から      
約1.2kmの間      
◎再現点 大垣市久徳 太平洋工業南面前付近まで   

美1-13 美濃路出現点
     (太平洋工業門前まで)

大垣市久徳町横枕

北緯

35

21

23.4

東経

136

35

24.5

県道31号線太平洋工業の門を入り守衛室前に東西に走る道が美濃路です。

東へ進みます。

整地碑(西の方)を見た美濃路 東の方を見た美濃路

大垣市静里支所から210mほど美濃路を進むと右(南)側に「西宮大神宮燈台」があります。

美1-14 西宮大神宮燈台

大垣市久徳町村前

北緯

35

21

21.7

東経

136

35

39.9

西宮大神宮

安政年間(1854〜60)の文字が読めます

「西宮大神宮燈台」から250mほど東に「久徳一里塚」が見えます。

美1-15 久徳の一里塚

大垣市久徳町村前

北緯

35

21

21.3

東経

136

35

45.5

             大垣市指定史跡 一里塚
 徳川家康は幕政の基盤を固めるため、全国主要街道の整備尼努め、慶長九年(1604)には、その路程標として一里塚を築かせた。
 一里塚とは、一里(約4q)ごとに街道の両側に五間(約9m)四方の塚を築き、その頂きに榎(えのき)などを植えたもので、旅人の里程の目安となり、乗り賃支払いの基準とされたほか、休息の場所でもあった。
 この一里塚は、東海道と中山道を結ぶ美濃路に築造されたもので、南側だけであるが榎が残るなど、ほぼ原形に近く貴重な史跡である。
                         (大垣市教育委員会)
 美濃路には、一律化が13ケ所ありましたが、ここと冨田に残るのみです。
 片側の左塚(南塚)のみが現存し、塚には榎があり、大垣市の史跡に指定されています。
                       (一宮市尾西歴史民俗資料館)

頂きには河川改修の記念碑がありました

頂きから見た美濃路

久徳一里塚の向かいには瓊瓊杵(ににぎ)神社があります。

美1-16 瓊瓊杵(ににぎ)神社

大垣市久徳町村前

北緯

35

21

21.3

東経

136

35

45.5

          瓊瓊杵神社は伊勢神宮の猿田彦神社
 日本神話によれば、猿田彦神は、ニニギの天降りの先導を終えた後、伊勢の五十川の川上に鎮まった。
 猿田彦神がニニギの先導をしたということから、交通安全・方位除けの神社として信仰される。
 天にぎし、国にぎしは、「天地が豊かに賑わう」の意。

             瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)とは
 瓊瓊杵尊は天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫で、天孫降臨神話の主役として有名な神様です。
『古事記』では神名を「天饌岐志国饌岐志天津日高日子番能邇邇芸尊(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)」、『日本書紀』では「天津日子火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)」とあります。
 「ニギシ」は豊富なことを表わす饒(じょう)を意味し、「ヒコヒコ」は日の神の御子が空高く照り輝くことを意味し、「二二ギ」は稲穂が元気よく成長することを意味しています。
  つまり、天から日の神の御子によって地上にもたらされた神聖な稲種が立派な稲穂に成長して豊かに実る、という意味になります。
  瓊瓊杵尊が高天原からもって来た稲の種が地上での稲作の起源になったというテーマになります。
 高天原から地上に降り立った瓊瓊杵尊は、高天原と地上をつなげぐ特別な神としての役目をもっています
 その特別な機能は、皇室の祖神である天照大神の孫(天孫)として地上に降臨し、歴代の天皇の祖先神になったという点です。
 これは天孫降臨神話が、天皇家の日本統治を正当化する理論的な根拠を示す神話だといわれています。
 瓊瓊杵尊が、天照大神から授かった三種の神器とは、八咫鏡、草薙剣、八坂瓊曲玉です。
 これらは後に天皇家の宝物とされ、皇位継承時に天皇の位を示す重要なシンボルとされることになりまた

久徳の一里塚からさらに美濃路を東へ進みます

一里塚から250mほどで杭瀬川の堤防手前に出ます。

堤防手前を南へ曲がります

県道31号線へ出ます

県道31号を横断して堤防へ出ます

堤防手前に秋葉神社があります

堤防を過ぎ「長源寺」前を通ります。

長源寺から50mほどで「塩田常夜燈」が見えます。

美1-17 塩田の常夜灯

大垣市静里町船越

北緯

35

21

09.8

東経

136

35

55.9

                大垣市指定重要有形民俗文化財
                      静里町塩田常夜灯

 この常夜灯は、高さ約4,3mの銅版葺(当初は茅葺であった)で、明冶十三年(1880)八月に杭瀬川を往来する舟の安全祈願と航路標識、そして伊勢両宮への献燈として塩田港の西岸に建立された。
 当時は、杭瀬川の水運がこの地方の物流輸送に重要な役割を果たしており、特に赤坂港と桑名港との間で舟の運行が盛んであった。 その中継港として塩田港は、常に20〜30隻の船が停泊し、船頭相手の銭湯、米屋、雑貨屋などの店が軒を並べ大変賑やかであった。
                          (大垣教育委員会)

 

美1-18 若森城址

大垣市南若森

北緯

35

21

07.8

東経

136

36

55.6

若森城址
詳細は「大垣城周辺の城・砦・陣屋跡」「大垣市の城・砦・陣屋跡」
14.若森城跡」を参照

寺の裏側から見るとあたりより土地のレベルが高いことが判ります。

「塩田湊跡」
杭瀬川の「塩田湊」は当時は上流の「赤坂湊」と下流の「桑名港」を結ぶ重要な拠点で
船の運航も盛んで秋葉神社の隣に「塩田常夜灯」がありました。
これらの条件を勘案して「若森城」は杭瀬川近くの「若森4丁目」あたりの土地の高い場所と考えます。
「県道31号」の信号「久瀬川町4」の西20mほどの辻を南へ入り2〜300mほどで久瀬川へ出ます。

塩田常夜灯横の塩田橋で杭瀬川を渡り直ぐに北へ曲がり徳円寺前を通り県道31号線へ出ます。

塩田常夜燈横の塩田橋を渡り大垣へ

江戸時代は舟運で賑わった杭瀬川を渡ります

杭瀬川を渡り北へ進み県道31号線へ出ます。

県道31号線を東へ1.3kmほど進むと大垣市船町へ到着します。

美1-19 大垣市船町高橋

大垣市船町高橋

北緯

35

21

東経

136

35

 

大垣市船町の「高橋」信号
美濃路は水門川に架かる「高橋」を渡って直ぐに北へ曲がります

船町の交差点の南に「船町中組常夜燈」が見えます。

県道に架かる「高橋」手前を南へ40m程の「船町中組常夜灯」

美1-20 船町中組常夜灯

大垣市船町3丁目

北緯

35

21

07.8

東経

136

36

55.6

       大垣市指定重要有形民俗文化財 船町中組常夜灯
 元禄年間(1688〜1704)に船町組頭の谷九太夫(木因)が舟衆の安全を祈願し、建立したと伝えられる。
 以降何度も改修されましたが、その都度様式は踏襲され現在に到ります。
 この常夜灯は明冶二十年(1887)に再建されたもので、もとは檜皮葺の神明造りでしたが、現在は銅版葺になっている。
                        (大垣市教育委員会)

元の美濃路へ戻り水門川の西側にある「奥の細道むすびの地」公園を訪れます。

美1-21 史蹟
細道むすびの

大垣市船町4丁目

北緯

35

21

09.4

東経

136

36

55.2

        史跡 奥の細道むすびの地
 俳聖松尾芭蕉は、元禄二年(1689)の秋、約5ヵ月の「奥の細道」の旅をここ大垣で終えた。そのおり、芭蕉は「蛤の二見に別行秋そ」と詠んで、水門川の船町港から桑名へ舟で下った。          

 

       木因俳句道標
 芭蕉の友人の谷木因が貞享年間(1684〜1688)に建立したという「南いせ くわな 十りさいごうみち」の句碑道標        
       (一宮市尾西歴史民俗資料館)

美濃路は「奥の細道むすびの地」を見ながら「高橋」を渡り左(北)折します。

左の水門川沿いにある句碑などを見ながら美濃路は北上します

船町の高橋を北へ曲がってから100mほどの左に「住吉燈台」と「船町港跡」があります

美1-22 船町港跡住吉燈台

大垣市船町4丁目

北緯

35

21

10.5

東経

136

36

56.2

          住吉燈台と船町港跡
 住吉燈台は、元禄年間(1688〜1704)前後に港の標識と夜間の目印として建てられたものである。 高さは約8m、四角の寄棟造りで、最上部の四方には油紙障子をはめ込んであり形全体の優美さは芸術品としても充分がある。         

 船町港は、江戸時代から明治にかけて大垣城下と伊勢を結ぶ運河「水門川」の河港で、物資の集散と人の往来の中心であった。
(大垣教育委員会)
  

桜の頃の住吉灯台

更に50mほど北上するとの「貝殻橋」の袂の「船町道標」へ来ます。
ここで小原鉄心の墓のある全昌寺をご案内します。
「船町道標」左手にある「貝殻橋」を渡り90mほどの南側に「全昌寺」があります。

美1-23 小原鉄心の墓
(全昌寺)

大垣市船町4丁目

北緯

35

21

14.4

東経

136

36

53.3

全昌寺
 全昌寺は大垣藩主戸田藩主戸田左門氏鉄(うじてつ)の室、大誓院が創建したものである。かって、境内地には大垣藩老小原鉄心の別邸無何有荘大醒樹が移築されていた。鉄心はここで木戸孝允などと明治維新の事業画策等をした。 (大垣観光協会)                                     
鴻(おおとり)雪爪(せっそう) 小原鉄心の墓
 当寺二十五世鴻雪爪は大垣に在住すること二十余年、その間藩老小原鉄心と交遊し、鉄心をして勤王の大義を全うせしめた。 明治初年の宗教革新には偉大な功績を残し、明治34年に入寂した。行年九十一。 鉄心は明治維新の功績により参与に任ぜられたが、明治五年に卒去した。享年五十六。      
(大垣教育委員会)

小原鉄心

 幕末の動乱期、窮迫する藩財政を建て直し、大垣藩を救った藩士小原鉄心26歳で家督を継ぎ、大垣藩九代藩主戸田氏正に仕え、藩の会計事務に就いた。
 当時の大垣藩の財政は、収入2万7千両に対し、支出は6万8千両と4万両の不足を生じ、それまでの借金は32万両に及ぶ深刻な状況であった。

 こうした中で藩主から命を受け藩政改革に着手し、有能な人材の登用、無駄な費用を省き、徹底的な質素倹約を強行し、家臣の数の削減、俸禄の半減、他藩や過去の改革の調査・実行し10年後に建て直しが出来た。

 鉄心は藩主から350石を加増されるが、固辞し、うち250石を返納し藩政のために役立てた。

(岐阜日日新聞濃飛歴史人物伝より)

大垣藩を勤皇側に導き藩を救う

 鉄心が藩政改革に取り組んでいた嘉永六年(1853)に、浦賀にペリーが来航した。 その際鉄心は、裏が奉行を勤めていた戸田氏栄の要請に応え、大垣藩兵百三十名を送った。 浦賀に行き外国艦隊を見た鉄心は、その軍備に驚き、自ら西洋砲術を学び、その後、西洋式大砲の鋳造や軍備拡張など藩の軍制改革を行った。
 元治元年(1864)、禁門の変では、薩摩藩と共に長州藩の軍勢と戦い、大砲を用い敵を伏見まで追いつめた。
 慶応二年(1866)の薩長同盟以降、倒幕運動が本格化した。 大垣戸田藩は徳川とは親密な関係があることから佐幕派としての意識が強かった。 大政奉還後も幕内では佐幕派の思想が強く残り、旧幕府側の支援をする趣旨を表していた。
 1867年、王政復古の大号令が出されると、新政府の担い手の人材を求め、大垣藩からは小原鉄心が朝廷に召しだされ、新政府の参与として参加した。 しかしこの時、徳川慶喜は、大阪駐屯の諸藩の兵およそ一万五千を率いて今日に京に向かい、戸羽伏見の戦いが始まった。 その中に、大阪の警備にあたっていた大垣藩兵も参加し、指揮は鉄心の養嗣子小原兵部が執っていた。
 旧幕府軍支持に傾きかけていた大垣藩の動向を危惧した鉄心は、藩主と重臣に今の時勢を説き藩論を勤王に統一した。これにならい美濃も勤王に恭順していった

再び美濃路の「船町道標」まで戻ります。
これからは大垣宿内の美濃路を辿ります。(地図は後ほど紹介します)

美1-24 船町道標

大垣市船町1丁目

北緯

35

21

14.6

東経

136

36

56.6

              船町道標
 この道標は高さ約2mの円柱状の石製で、文政年間(1818〜1830)に大垣城下京口御門(西総門)の南、美濃路沿いに建立された。  その側面には「左 江戸道」・「右 京みち」の道案内、そして上部には旅人の道中の安全を願い梵字(ぼんじ)(種子)が深く刻まれている。                           
 先の大戦で被害を受け、路傍に横たわっていたが修復され、往時の美濃路を偲ぶ貴重な民族資料となっている。                                

「船町道標」から10mほど北に進んだ「京橋」が大垣宿入口になります。

大垣宿

宿場の概要

大垣藩領、 宿高 不明、

宿長 26丁14間(約2,862m)、 人口 5、136人、 家数 903軒、 

旅籠 11軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、 問屋場 1ケ所、          

垂井宿から 二里半六町(約10.5km)(久徳一里塚・綾戸付近が一里であるが不明)

墨俣宿まで 二里五十間(約7,9km)(三塚一里塚・東結一里塚)

                  大垣宿
 大垣は、大垣藩戸田家十万石の城下町としてだけでなく、美濃路の宿場町としても栄えました。
 大垣宿は、美濃路沿いの船町、俵町、竹島町、本町、伝馬町の往還町5町と、脇道である岐阜道沿いの岐阜町、脇町である中町、魚屋町、新町、宮町の10町からなっていました。
 西の若森村境から東の藤江村境の26丁14間(約2,862m)で、宿場の特徴として城下町特有の曲がり角が多いことがあげられます。
 天保十四年(1843)の大垣宿には、家数903軒、人口5,136人、旅籠屋11軒、本陣・脇本陣格1軒、問屋場1ケ所がありました。
 本陣は、関ヶ原の戦いに大垣城を守った七騎の一人、沼波玄古秀実により創立されました。 その後 沼波家・岡田家、さらに天保十四年に飯沼家が本陣役を勤めました。
 本陣跡は現在、竹島会館となり、上段の間が本陣の面影を残しています。
 明冶11年(1878)東海北陸御巡幸の際、明治天皇が宿泊したことから、「明治天皇御行所跡」の石碑が建てられています。
 脇本陣は、大垣城を守った七騎の一人、松井喜右衛門により創立され、その後戸田家が大垣に入封の際、随従してきた上田家が勤めました。
 大垣宿は、松尾芭蕉の「奥の細道むすびの地」としても有名で、船町港の住吉燈台や朝鮮通信使の宿泊所となった全昌寺など史跡が数多く点在しています。

美濃路03/15
 大垣宿の中の美濃路ルートと西総門跡(京口門)から東総門跡(名古屋門)までの主な史蹟をご案内します。

美濃路全区間を15区間に分けてご案内します。(本図は3区間目です)

ここには西総門があり本町・中町・魚屋町・竹島町・俵町などの町は武家屋敷と共に総濠の内にあり
いざという時は城と共に守られるようになっていました。 京都方面が西総門なら江戸側(尾張名古屋方面)は
東総門はで、毎日「明け六つ」「暮れ六つ」には門は閉ざされ、出入りは出来ませんでした。

美1-25 美濃路大垣宿入口
西総門跡
(京口御門跡)

大垣市船町1丁目

北緯

35

21

15.0

東経

136

36

57.1

西総門(京口門)
 三重の堀に囲まれた水の城「大垣城」の総堀内には、古来からの町屋である本町、中町、魚屋町、竹島町、俵町があり、その町屋を縫うように美濃路が通っていた。西方に位置する西総門は、京都方面にあることから京口門とも呼ばれ、明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じられた。この門を設け、総堀に橋を掛けることにより、有事の際に外部との交通を遮断するなどの防御が図られたのである。門の近くには二重の櫓が設けられ、土塀が巡らされた。(現地案内板より)                                            

二重の櫓の様子が描かれた古図

美濃路は「京橋」を渡って7〜80mで俵町信号へ出ます。
ここを右(東)折し150mほど進むと道が狭くなります。(美濃路当時のまま残されています)

道が狭くなってから1〜20mほどの左側に大垣名物柿洋館本舗があります。

美1-26 槌谷柿羊羹俵町本舗

大垣市俵町

北緯

35

21

15.9

東経

136

37

04.9

槌谷本舗から100mほど進むと県道57号線へ出ます。ここを左(北)折します。

県道57号線を50mほど北進し三叉路を東へ入ります

東へ入ると10m程左に大学宿本陣跡があります。

美1-27 大垣宿本陣跡

大垣市竹島町

北緯

35

21

17.7

東経

136

37

10.0

                美濃路大垣宿本陣跡
  中山道と東海道を結ぶ美濃路の大垣宿本陣跡。また明治天皇は、明治十一年(1878)に東海・北陸御巡幸
の帰途、美濃路大垣宿の旧本陣の飯沼武右衛門邸に泊まられた。

大垣市指定史跡明治天皇行在所跡
 明治天皇は東海・北陸御巡幸の帰途、美濃大垣宿の旧本陣飯沼邸に泊まられた。飯沼邸は往還に沿って南面し、主屋には上段の間・上段次の間・家老次の間・使者の間・玄関広場・表座敷・膳建の間・料理の間・台所等の諸室が配され、なかでも明治天皇が泊まられた「上段の間」は、奥庭に面した書院造りの大変風格のある8畳間であった。                        
(大垣教育委員会)

       大垣本陣跡
 本陣は、宿場のほぼ中央に位置し、大名や宮家・公家、幕府役人などの貴人が利用した休泊施設である。 大垣藩は、永禄の頃沼波玄古秀実が竹島町を開き、はじめて本陣を創立したと伝えられる。  
 以後、本陣役は宝暦五年(1755)には玉屋岡田藤兵衛が勤め、天保十四年(1843)には飯沼定九郎が問屋を兼ねて勤めた。
          (現地説明板より)

大垣宿本陣跡から竹島町の美濃路を東へ進みます。

150mほど進むと交差点へ出ます。左手前の角が大垣宿問屋場跡です。

美1-28 大垣宿問屋場跡

大垣市竹島町

北緯

35

21

17.4

東経

136

37

16.7

                大垣宿問屋場跡
 宿場において人馬の継立の業務を行なったところが問屋場である。ここへは問屋役はじめ、その助役の年寄、事務担当の帳付、その他、馬指や人馬指が詰めていた。
 大垣宿の問屋場は本町にあったが、寛文の頃にここ竹島町に移った。
 問屋役は飯沼家が本陣役と兼帯して勤めていた。
                           (現地説明板より)

美濃路は問屋場角を北へ曲がります。

大垣宿問屋場を110mほど北進し四差路を東へ曲がります

50mほど東へ進み一つ目の交差点を北へ曲がります

この交差点の東南に「本町道標」があります

美1-29 本町道標

大垣市本町2丁目

北緯

35

21

20.9

東経

136

37

19.5

                   本町道標
 この道標は、旅人の便を図るため美濃路と竹鼻街道の分岐点に立てられたものである。
 竹鼻街道は、当初、大垣と竹鼻の往来に利用されたが、宝暦の治水工事の完成と、宝暦十一年(1761)に駒塚の渡しの開設により、美濃路の短絡道として盛んに利用されることになった。その経路は、竹島から平の渡しを通り、竹鼻・駒塚の渡しを経て尾張の冨田で美濃路に合流した。
                          (現地の説明板より)

美濃路は「本町道標」を北へ進みます。

70mほど進むと県道237号線を横断します。

更に70mほど進んだ一本目の四つ辻の西北角が大垣宿脇本陣跡です。

美1-30 大垣宿脇本陣跡

大垣市本町2丁目

北緯

35

21

25.7

東経

136

37

13.0

                 大垣宿脇本陣跡
 脇本陣は、本陣の補助的役割を果たす休泊施設である。 大垣宿では本町大手北側にあって、もと関ヶ原の役で大垣城を守った七騎の一人松井喜右衛門によって創立された。
 その後戸田家の大垣入封に随従した上田家のが勤めることになった。
 この脇本陣は、「本町本陣」と呼ばれ、間口十二間半余、奥行き十六間半余で坪数百二十七坪半余もの格式ある建物であった。
                              (現地説明板より)

大垣宿脇本陣跡の四辻を西へ15mほど入ると大垣城の正面門「大手門跡」があります。

美1-31 大垣城
大手門跡

大垣市郭町東2丁目

北緯

35

21

25.7

東経

136

37

17.5

                  大垣城大手門跡
 大垣城の東にあり、大垣城の正門である。町屋の本町の通じていた。現在、広峰神社が建てられており、神社の東の水路がかっての内堀である。
 城主氏家常陸介直元のとき、松之丸の地に住んでいた松井喜右衛門に替地をさせ、この地の警護を命じている。
                            大垣城の正門
 七口之門のひとつ。明治四年(1871)大手門を取り壊した下りに廣峰神社を移築したため、大手門北部の原形をよくとどめ、東側の石垣は往時のままである。   (現地説明板より)

大手門跡
 大垣城は、南と東を大手、北と西を搦手(からめて)とする要害堅固な城郭であった。惣郭(そうくるわ)には、大手口・南口・柳口・竹橋口・清水口・辰之口・小橋口の七口御門がりなかでもこの大手口御門(東大手)は城の正門で、はじめに高麗門と呼ばれる第一の門をくぐって、左におれると威風堂々とした第二の門である櫓門につきあたる二重の城門を配置した枡形形式の堅固なものであった。                           
 明治四年(1871)大手門を取り壊したおりに、その枡形跡に広峰神社を移築した。そのため、同神社境内は大手門北部の原型をよくとどめ、東側の石垣は皇子のままである。また、その名残で、今もこのあたりを本町大手または大手通り、大手町などと呼ぶ。  (大垣教育委員会)                            

大垣城を守った門は全部で七門あり七口御門といわれている。

美1-32 大垣城下の城門跡
七口御門跡

大垣城七口之門
 大垣城は、南と東を大手、北と西を搦手(からめて)とする要害堅固な城郭で
あり、惣郭には、大手、南口、柳口、竹橋口、清水口、辰之口、小橋口の七口
之門があった。(現地説明板より)                          

明治維新で七口之門・東西総門破却命令
 明治二年(1869)の版籍奉還の翌年、七口之門(ななくちのもん)と東西の総門を破却。 廃藩置県にともない、城郭の所管は陸軍省、ついで大蔵省に移り、明治六年(1873)5月には旧城地の建物・立木・石垣など、いっさいを公売することになった。

 

その他大垣城下町の
史  跡

美1-32−01 大垣藩校
    敬教堂跡

大垣市東外側町2丁目

北緯

35

21

39.1

東経

136

37

06.5

大垣藩校「敬教堂」と大垣のトネリコ
 大垣藩第八代藩主戸田氏庸(うじつね)は、藩士の子弟を教育するため、天保十一年(1840)大垣城龍の口門外(現在地)に学問所を創設し、後に致教館と改称した。 さらに敬教堂と校名が改まった後、第十代氏彬(う
じあきら)のとき、孔子像を祀った大成殿を設け、その雷除けとして植えられたのが「剣の木」と俗称されるこの「トネリコ」であると伝えられる。 明治維新後、間もなく廃校となったが、それまでに幾多の学者や文化人を育くみ、
懇意地の「文化のまち大垣」の名を高める礎となった。  (大垣教育委員会)                  

さらに西へ進むと八幡神社があります。

美1-32−02 大垣八幡神社

大垣市西外側町1丁目

北緯

35

21

37.8

東経

136

36

57.1

大垣八幡宮と東大寺
 中世には大井荘と呼ばれ東大寺領であったため東大寺の鎮守を勧請して建てられた。 また、戸田左門氏鉄が八幡神社を再建整備したおりに、城下町の町民が喜び山車を造って曳いたのが、大垣まつりの起源だと言われている。 (大垣教育委員会)                                                
芭蕉句碑 冬ごもり塚
折々に 伊吹をみては 冬ごもり 芭蕉
自噴水 大垣の湧水
 大垣には昔から「水の都」と呼ばれ、多くの家庭には自噴井戸がありました。 それに町のいたるところに水路があり、そこを清水が流れておりました。 大垣は水とは切っても切れない関係にあり発展してまいりました。
大垣南ライオンズクラブは結成30周年を迎えるにあたり、”水と親しみ、水に感謝し、自然にも感謝”できる市民の憩いの場所となるよう、八幡神社の境内に自噴井戸を掘削いたしました。 皆様にいつまでも愛される井戸として、大切にご利用ください。 (八幡神社 大垣南ライオンズクラブ)                      

美1-32−03 戸田氏菩提寺
      円通寺

大垣市西外側町1丁目

北緯

35

21

33.3

東経

136

36

56.0

円通寺山門
 円通寺山門は、寛永十二年(1635)大垣初代藩主戸田氏鉄(うじかね)公が尼崎から大垣へ国替になった際
同時に菩提寺である本寺の伽藍を移し、現在地に建立したものである。 以来、雷火のため数回焼失したが、現
在の木造本瓦葺の山門は、天保年間(1830〜44)に再建され、大垣藩十万石歴代藩主の菩提寺の山門にふ
さわしい豪壮な姿を今に伝えている。 (大垣教育委員会)
円通寺
戸田氏の菩提寺として近江膳所ヶ崎で創建され、その後尼崎を経て寛永十二年(1830〜44)に再建された。
   
 戸田家廟所
 大垣藩十万石の歴代藩主が眠る戸田家廟所は、寛永十二年(1865)初代藩主氏鉄(うじかね)公が尼崎から
大垣へ国替になった際、同時に戸田家菩提寺の円通寺を移したことに始まる。 先の戦災で大きな被害を受け
たが、昭和38年(1963)市政45周年を期に墓の復旧をはかると共に東京の蓮光寺にあった9代氏正(うじま
さ)公・11代氏共(うじたか)公の墓も移すことになり、翌年4月戸田家11代歴代藩主の墓が揃い完成した。  
(大垣教育委員会)

 

美1-32−04 飯沼慾斎邸跡

大垣市俵町

北緯

35

21

18.4

東経

136

36

57.5

 飯沼慾斎は天明三年(1783)伊勢国亀山の西村家に生まれました。
 大垣の町医者飯沼長顕(伯父)の養子となり、医学を学ぶ傍ら、本草学者小野蘭山の門に入り本草学を修めた。
 晩年、長松村の別荘『平林荘』に隠棲して植物学の研究に没頭し世界的植物学書といわれる「草木図説」を著した。

次は「大垣城」へ

美1-33 大垣城

大垣市郭町2丁目

北緯

35

21

31.6

東経

136

37

08.2

 詳細は「城郭・城址之散歩道」「大垣城」で紹介してあります。

大手門跡を更に西へ120mほど進むと駅前通りへ出ます。
この右角に「大手いこ井の泉」があります

美1-34 大手いこ井の泉

大垣市郭町1丁目

北緯

35

21

26.4

東経

136

37

12.9

年中水温14度
大垣を象徴する水をテーマに、自噴泉を活用した広場を整備したもので、深さ150mの井戸からは、水温14度ほどの地下水が、こんこんと湧き出ています。

さらに本町通りを北へ130m進んだ四辻を西へ曲がり60mほどに小さな溝があります。
これが先に紹介した大垣城を守った七口御門のうちの一つ「小橋口門跡」があります。

美1-35 小橋口門跡

大垣市郭町東1丁目

北緯

35

21

32.2

東経

136

37

20.7

現地に案内板がないため正確には確認できませんでしたが、昔の堀跡らしき溝が残っているこの付近と判断します。

再び美濃路を北へ40mほど進んだ四辻の北東の角の公衆電話ボックス脇に大垣宿高札場跡があります。

しかし昭和になっても掲示板として使用されていた貴重な江戸の証人も今はありません。

美1-36 大垣宿高札場跡

大垣市本町1丁目

北緯

35

21

33.1

東経

136

37

19.5

                大垣宿高札場跡
 本町の北隅、札の辻と呼ばれたこの地に、幕府からの禁制や通達事項などを板札に書いて掲げる高札場が設けれられていた。
 各宿場間の里程測定の基準になり、移転はもとより文字が薄くなた時でも、許可なく墨入れなどは出来なかった。
 明冶六年に廃止されたが、この高札場は、昭和になっても掲示板として使用されていたようである。
                           (現地説明板より)

この高札場のある四辻を西へ約40mほど進んだ南側に小原鉄心邸跡があります。

美1-37 小原鉄心邸跡

大垣市郭町東1丁目

北緯

35

21

34.8

東経

136

37

14.3

                明治新政府でも活躍
 子兵部は鳥羽伏見の戦いで朝敵となり禁固の身となったが、藩主が謝罪し、大垣藩が東山道鎮撫使先鋒軍を命ぜられた。 千二百三十七名の藩兵が勤王討幕軍として戦い功績を挙げたため、兵部の罪は許された。
 その後鉄心は、新政府で会計局判事東京府判事となり、財政確立を担当した。
                         (岐阜新聞「飛歴史人物伝」より)

高札場のある四辻へ戻り東へ約50mほど進むと四辻があります。

美濃路は、この四つ辻を北へ曲がりますが、真っ直ぐに東へ50mほどの右側に「御朱印地遮那院跡」があります

美1-38 御朱印地遮那院跡

大垣市清水町

北緯

35

21

32.9

東経

136

37

24.2

             大垣市指定史跡 御朱印地遮那院跡
 遮那院(しゃないん)は天武(てんむ)天皇の勅願所として白鳳(はくほう)年間に創立されたと伝えられ、のちに弘法大師が再興させようと、大日如来・不動明王(みょうおう)・愛染(あいぜん)明王の三尊を彫刻し、本尊としたといわれてます。
 江戸時代には、御朱印地として幕府から諸役を免除され、保護されててきましたが、明治維新の神仏分離令により廃寺となりました。
 現在では仏様と仏器が慈応寺(市内長松町=美濃路の垂井寄りにあり長松城址で案内すみ)尼写されています
                           (大垣教育委員会)

美濃路の四辻へ戻り北進します。

100mほど北進すると大きな交差点へ出ます。

ここが大垣宿の東の口です。

美1-39 東総門跡
        (名古屋口門跡)

大垣市東外側町1丁目

北緯

35

21

35.5

東経

136

37

25.4

美濃路七宿
(目次)へ

美濃路ー1の2
(大垣宿続編)へ

美濃路七宿編のうち「大垣宿」