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岐阜街道(鮎鮨街道)

美濃・尾張街道集(目次)へ

岐阜街道加納宿中山道から
木曽川「笠松湊」まで

岐阜街道(鮎鮨街道)
岐阜街道は名古屋街道、鮎鮨街道等と呼ばれ、稲沢市井之口を基点として、一宮市を経て木曽川を渡り
岐阜県に入り、笠松町から岐阜城下まで六里半の道で、旧国道22号(現在の県道名古屋一宮線・岐阜線)の元となっている。

鮎鮨街道

鮎鮨街道か?御鮨街道か?
元は熱田の渡しから岐阜を結んでいたので「岐阜街道」、尾張へ向かうので
「尾張街道」あるいは「名古屋街道」と様々な名称で呼ばれていました。
これは幕府が管理していた五街道などと違い尾張藩が本国名古屋と尾張領の
岐阜を結ぶために整備した街道のため決まった名称は無かったようです。
ここでは、唯の鮨ではなく長良川の鮎で作った鮎鮨将軍に献上した事と、
笠松問屋場跡にある碑に「鮎鮨街道」が使われているのでこちらにしました。

鮎鮨街道の起点(赤線が街道)
起点は御鮨所が有ったと言われる常在寺付近の
林稲荷神社(岐阜市益屋町)辺りと言われています。
鮎鮨街道の終点
岐阜町から加納宿を通り笠松陣屋のある笠松湊から尾張領宝江渡船場へ渡り
黒田城下・一宮城下を通り清州城下へ入るが、その手前で、美濃路につながる、
その地点(稲沢市四ツ家追分)が終点と言う見方もあります。
その後美濃路を辿り七里の渡しから東海道を走り終点は江戸だという
見方もあります。

岐阜町

岐阜町は尾張領?!
街道起点の岐阜町は関ヶ原合戦時に岐阜城主の織田秀信(信長の孫)は西軍(大阪方)につき徳川家康と敵対したが、あっさりと負け出家させられ、岐阜城は廃城と
なりました。 しかし城下町は斉藤道三と織田信長の楽市楽座と長良川の水運によ
る物資の集積地として賑わい軍事的にも重要で尾張藩も魅力的だったのかもしれません。   岐阜町は上図の斜線部分あたりと言われています

御鮨所から鮎鮨街道(上図の赤線)を辿り笠松湊まで歩きましょう。
まず御鮨所が付近にあったと言われる林稲荷神社裏を出発します。

鮎鮨街道起点?
御鮨所

岐阜市益屋町

北緯

35

25

47.9

東経

136

46

27.9

林稲荷神社裏口
この付近だったと言われています。

献上鮎鮨は六日で将軍に

「鮎鮨街道」は岐阜街道・笠松街道ともいわれ、
季節になると「鮎鮨」を将軍家に献上するために「岐阜町」から「
加納宿」問屋場で中継ぎ、笠松湊に運ばれ、笠松からは木曾川を
舟で渡し、尾張藩へ、そして一宮を経て名古屋へ
そこから江戸へ飛脚便で約六日で運んだようです。

御鮨街道概略
長良川でとれた鮎を鮨に調製して江戸幕府へ献上したときに通った道路を「御鮨街道」と呼ぶ.
岐阜町の河崎家,後藤家という鮨所によって調製された鮎鮨等を加納新町岐阜問屋熊田助右衛門方において宿継ぎをして,
八幡町を経て南進し,笠松問屋高島家へ運ばれた.その後東海道を下って江戸へと運ばれた.

「鮎鮨」将軍献上のいわれ

大宝二年(702年) 
 公式文献に「鵜飼」の記述が登場するのは、その戸籍に長良川近くに「鵜飼」で生活する村の存在があり、それが1,300年の伝統の根拠となっています。

 「鵜飼」は有史前からの漁法で全国で行われていたようで
すが岐阜地方だけ注目されたのは、歴代の権力者に守られてきたからと言われています。

「平治の乱」 平治元年(1159年)
 平治の乱に破れ京から東北へ落ち延びる源義朝、親子は途中はぐれ義朝は知多半島の豪族館で討たれましたが、
子供の頼朝主従は道に迷い長良川河畔の鵜飼いの家に宿をもとめもてなしを受けました。

 後に頼朝が将軍になったのを縁に昔もてなした「鮎鮨」を献上し、以来将軍に献上するのが習いとなったようです。

「鵜匠」の称号
 信長が天下を取る前、岐阜にいた頃鵜飼いを好み後に「鵜匠」の称号を与えたようです。徳川家康も手厚く保護しました。 また家康は、腐りやすい鮨を早く江戸まで運べるよう街道(鮎鮨街道)整備や問屋(運用機関)に御用提灯を許すなどの
整備もしました。

「尾張家」の将軍への献上「鮎鮨」
 江戸時代に東海道が整備され各宿の問屋場がおかれるとシーズン中(6月から9月まで4ケ月)は腐りやすい
「鮎鮨」を月に6回も江戸間で数日で運ばせ、将軍に献上しました。
 それを運ぶ苦労は大変なものだったようですが、岐阜町の「お鮨所」から加納問屋、笠松街道(鮎鮨街道)で笠松問屋、
木曽川を渡って一宮問屋、名古屋と受け継がれて運ばれたようです。
 1区間14人の人足が担当したようです。
 このため尾張家の費用も大変だった様です。

明治以降の岐阜鵜飼の地位
 明治維新で一度廃れましたが、明治23年に明治天皇の行幸があり鵜飼いをご覧になってから御漁場(岐阜市日野=対岸に大きな碑があります)が設けられ宮内庁の管轄に入りました。

美濃町曽代の「御漁場」の想い出
 は長良川添いの美濃市曽代にもありました。
 終戦後、疎開で美濃市曽代にいました。
 当時は食糧難で毎日食べる物が無く、空腹の連続でした。
 そばを流れる長良川は戦争中は「天皇の御漁場」川に入ることさえ禁止されていました。
 私たち子供は夜、こっそりと川辺に立ち川の中に石を投げるとびっくりした鮎が岸辺に逃げてきてピチピチ跳ねたり足の
下へ逃げてくるのです。
 長い間誰も川に入ることがなかったので、魚は鮎ばかりでなく沢山いました。
 戦争中にそのような、おおそれた事をすると一家、銃殺にされると聞かされていました。
 当時、周辺の人はそれで飢えを凌いだと言われています。
 そのためか、私は今でも鮎はあまり好きではありません。

地図で順路と参考情報を掲載しますので参考にしてください

「鮎鮨街道」案内図(1)

赤線鮎鮨街道です
この道順で進みます。起点から靭屋町曲がり角まで約380mの案内図です

では起点付近から鮎鮨街道を笠松湊まで辿りましょう。
この通りは斉藤道三が岐阜町発展のためにつくった大通りで「百曲通り」と呼ばれていたそうです。

百曲通り

岐阜市大仏町

北緯

35

25

46.4

東経

136

46

23.0

東(金華山方向)へ進むと岐阜城の麓の屋敷へ向かいます。 西(長良川堤防)へ町民町へ

             現在は「戦国の大道」「御鮨街道」として保存されています。
                     、御鮨街道について(1)
 
長良川の鵜飼でとれた鮎を飯とともに発酵させた鮎鮨を、江戸の将軍家へ献上するために搬送した街道です。
 鮎鮨は、岐阜町が幕府領の時代から江戸へ運ばれるようになり、元和五年(1619)に岐阜町が尾張領になると尾張藩から幕府への献上品となりました。
 鵜が獲った鮎は、御鮨所に運ばれ、まず塩漬けにされます。
 それを塩出ししたのち、エラなどを取って腹に飯を詰めて桶に並べ、水をとおした飯を上からふりかけ、これを繰り返して桶イッパイに漬け込みました。
 これが運ばれるうちに発酵して、江戸に着く時期に食べごろになりました。
 毎年旧暦五月から八月までの間に、江戸時代の前半には二十回、後半には十回、鮎鮨は岐阜から江戸まで運ばれました。
 老中証文を受けた特別輸送で夜も休まず運んだため、わずか4〜5日間で江戸に届いています。
 この輸送は、文久二年(1862明冶元年より6年前)まで続きました。(現地説明板より)
                  御鮨街道について(2)

 鮎鮨は岐阜を出発し、名古屋を通って東海道経由で江戸まで、宿場をつなぐリレー方式で搬送されました。
 輸送の先頭には監督役の「牢領」、次に老中の証文を運ぶ「御証文箱持ち」、続いて鮨を運ぶ人足が交代要員も含めて十人ほど、「提灯持ち」などを加えると搬送行列は十五人前後で構成されていたとみられます。
 鮎鮨は、食べごろに江戸の将軍家に届けないといけないものだけに、厳重な荷の管理と、遅延なき受け継ぎガ求められました。
 「刻付帳」への到着時刻の記載、縄のゆるみや箱の傷など、荷の現状確認の申し送りも義務付けられていました。(現地説明板より)

百曲通り
斉藤道三が町つくりの中心にした道で、この道筋には守護土岐氏最後の
城下町大桑(現在の山県市高富町大桑)から町民を引っ越させて住まわせたと言われています。
その名残として、ここから西の長良川堤防近くに今でも大久和町、中大桑町、下大桑町の町名が残っています。
本町通り
この道の南の現在の本町通りも道三が城の正面通りとした道です。

百曲通りには梶川堀の名残が残っています。

梶川堀

岐阜市大仏町

北緯

35

25

46.2

東経

136

46

23.0

梶川の名は
信長に仕えた梶川高盛の屋敷が、この南東にある「常在寺」辺りにあったことに由来しています。
(現在も常在寺の町名は梶川町です)

岐阜城が廃城となって直ぐに
武家屋敷は一帯は古屋敷と呼ばれ畑などされ、今では堀筋野一部が水路として残っています。

百曲通りを横断する梶川堀跡
織田信長はこの堀より東側(金華山麓)には信長の家臣団の武家屋敷を、
西側には町人たちを住まわせた岐阜町が有ったとされています。
今はこの玉石に往時の名残を残すのみで、画面上の民家の間に
わずかに30cm程の溝が残っています。

百曲通りから1本南の通りを覗いてみましょう

林稲荷神社

岐阜市益屋町

北緯

35

25

45.2

東経

136

46

26.4

御鮨所が付近にあったといわれる林稲荷神社

林稲荷神社の前で東の方を見ると正法寺が見えます。

日本三大仏籠大仏
正法寺

岐阜市大仏町

北緯

35

25

14.2

東経

136

46

29.4

林稲荷神社の隣は覚林寺ですが本堂は平屋です 林稲荷神社から東に60mほどのところに篭大仏があります

「金鳳山正法寺」

 岐阜の金華山麓の岐阜公園近くに竹材で作った大仏「籠大仏」があります。

 場所は岐阜市大仏町の金鳳山正法寺「籠大仏附木造薬師如来坐像」と言われ岐阜県重要文化財です。

発願の和尚は途中で倒れる
 文化年間(1810年頃)に正法寺第11代錘中和尚は地震や飢饉で亡くなった民衆の災霊供養のため奈良東大寺の大仏にならい大釈迦阿弥陀仏の建立を発願しました。
 近郷から、遠くは信州まで浄財や経本の寄進を求めましたが思うよう寄進が得られず志半ばにして倒れました。

近郷の民衆が地元特産の竹と紙で
 それを聞き及んだ近郷の民衆が大仏建立を果たすべく、いちょうの真木を中心に木枠を組み、近くに豊富にある竹材を
編んで大仏の形を作り、その上に粘土を塗り固め、一切経、阿弥陀経、観音経の写経した美濃紙(産地は近くの
今の美濃市)の寄進を受け、粘土の上に糊で貼り、その上に漆を塗り質感を出し金箔を張り付けて仕上げました。

発願から30年
錘中和尚の発念から30年以上も掛けて開眼した大仏は高さ13.7m(4階建てビル)あり、
奈良大仏(14m)、鎌倉の大仏(11m)に並び「日本三大仏」と言われています。
 胎内には薬師如来坐像が祀られていて、これも県重要文化財に指定されています。
火災が心配
 今、この大仏を見上げると当時の貧しかった民衆のパワーとアイデアが身近に迫る思いが
あります。しかし、建物の木材は檜やケヤキ材はあまり使用されてていなくて貧弱です。
 その上、現在の防火施設、消火設備もほとんど見あたりません。
 誰でも出入り出来る境内は近所の子供の遊び場です。先の空襲からも、辛くも逃れた、
この大切な遺産を間近に見るに、防災の貧弱さを心配するのは、 私一人でないと思います。
 万一、放火でもされたらひとたまりもないと思います。
 一度、訪れて私と同じ心配をしてみて下さい。

拝観料は大人150円/子供100円です。

2008年末すす払い
 1年のほこりを落としすっきりと新年を迎えようと年末に正法寺の岐阜大仏で師走恒例のすす払いが行われた。岐阜大仏は竹の枠組に経文を張り、漆を施す乾漆仏としては日本一の高さという。そのためにすす払いには、柄の長さが約8bもあるはたきが使われる。                    

 「乾漆仏なので、ぬれた布でふけないので、そっとほこりを落としている。特に顔の部分が大変」と奉仕をしている檀家の面々が回廊に上がってはたきを使っていた。

(岐阜新聞より)            

境内には

地蔵菩薩
この寺で最も古い御仏で戦国時代の作品と伝えられています
古文書には「戦火で当寺を焼失したとき、地蔵菩薩の首が
岩戸(金華山の南麓=岐阜市長森岩戸)の田圃の中から発見
されたのを仏師が苦作の上完成させた」とあり籠大仏と共に
信仰を集めている御仏様です。

宝塔
此の多宝塔は、当初 伊奈波山の中腹の伊奈波
神社境内に安置されていたのを明治十年の神仏
混淆(こんこう)禁止令が発布され時その難を
避けるため当寺に移されたもので、
徳川時代の中期の頃の作と記録されています。

敷地内の「香芳苑」では「普茶料理」も楽しめますが予約制ですので電話をしてから訪れて下さい。

 ◎住所:岐阜市大仏町8(TEL 058-264-2760)です。
 ◎交通機関:名鉄、JR岐阜駅からバスで10分、「岐阜公園」下車すぐ。

鮎鮨街道へ戻り南へ進むと本町通りへ出ます。

本町通りへ出る

岐阜市本町1丁目

北緯

35

25

43.7

東経

136

46

21.7

本町通りを東へ90m程の所に常在寺があります。

「斉藤道三」菩提寺
常在寺

岐阜市梶川町

北緯

35

25

43.9

東経

136

46

25.8

戦国武将として名高い斎藤道三にゆかりの深い寺

国重要文化財斉藤道三像ある寺
 この寺は宝徳2年(1450年)に土岐氏守護代の斉藤妙椿が京都の妙覚寺の僧を招いて
開山したと言われています。
 正式名、鷲林山常在寺、日蓮宗京都妙覚寺の末寺です。その後、戦国時代に入って道三の代になると、斎藤の名乗るほどの勢力となり、後には土岐氏をも滅ぼして美濃国主になりました。
道三は常在寺に寺領を与えて保護し発展しました。
道三・義龍親子の菩提寺になっており、2人の画像や文殊菩薩が安置されています。

油売りから僧侶に、そして領主へ
斉藤道三は妙覚寺の僧であった父「新左衛門尉」が美濃に築いた地位を基盤として「斉藤氏」を名乗るまでに勢力を付け、さらに土岐氏を滅ぼし、美濃国主となりました。
 そのため、道三は「常在寺」を改築し、寺領として”領下、日野、芥見”等を与えて保護しました。
 しかし、その子「義龍」は父道三を”長良川の戦い”で敗り美濃の国を支配しました。

拝観できるのはレプリカです
寺宝の道三像は道三の娘で織田信長の妻「北の方」(一般には濃姫)の寄進と言われています。
 義龍像は義龍の子義隠の寄進したもので、ともに国重文です。

拝観料は大人150円/子供100円    (岐阜市梶川町9)

斉藤道三画像
常在寺蔵 重文
(岐阜城展示のレプリカを撮影)

常在寺の向かいに妙照寺があります。

妙照寺

岐阜市梶川町

北緯

35

25

43.0

東経

136

46

26.2

慶長5年(1600)、竹中半兵衛屋敷跡に創建した寺で、

                 松尾芭蕉滞在の寺
 松尾芭蕉は、貞享5年(1688)、45歳の時に妙照寺の日賢上人に案内されて、滋賀の大津を6月6日に出立し、愛知(えち)川、美濃赤坂を経て8日に岐阜に到着。 そして妙照寺に1ヶ月ほど滞在しています。
 その間長良川の鵜飼いを見物して、有名な「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟哉」を句を残しました。
 日賢上人は、「しるべして 見せばや美濃の 田植え歌」の句で芭蕉を美濃へと誘っています。
 岐阜本町に住む呉服小間物商「萬屋」の主人・安川落梧は、岐阜を代表する豪商であるとともに岐阜俳壇の大御所。
 安川落梧はしばしば芭蕉を鵜飼見物に誘っていたが、その招きに応じて岐阜にやってきした。

本堂
現存する本堂は、寛文2年(1662)に建てられたもので全国的にも珍しい
江戸時代前期の日蓮宗の寺院建築です。
内部の須弥檀(しゅみだん)回りは当初のままで、意匠・色彩など江戸時代初期の
雰囲気をよく残しています。 岐阜市の重要文化財。

庫裡は江戸時代前期のものと推測されています。
貞享5年(1688)に芭蕉が1ヶ月ほど岐阜に滞在した時に、この寺を拠点としていました。
芭蕉が暮らした12畳の座敷(庫裡にある「芭蕉の間」)が現存しています。

芭蕉の句碑
この寺に到着した時の挨拶の句が「やどりせむ あかざの杖と なる日まで」で、境内には句碑が立てられているほか、
句碑の横には芭蕉が植えた紅梅も残されている。

妙照寺から鮎鮨街道へ戻る地点の南山側に八幡神社あります。(案内図1参照)

八幡神社

岐阜市本町1丁目

北緯

35

25

42.8

東経

136

46

21.6

社(やしろ)は岩の上にあります。
明治時代の繭糸貿易商寄進

本町通へ戻り西へ180mほど進むと靭屋町へ曲がる信号機のない三叉路へ出ます。
その三叉路を南へ曲がります

本町通りから靭屋(うつぼや)町
へ曲がる

岐阜市本町町2丁目

北緯

35

25

42.9

東経

136

46

18.8

本町2丁目の三差路

次の区間は靭屋町曲り角」〜「小熊町通り」まで案内します。

「鮎鮨街道」案内図(2)

赤線鮎鮨街道です
「本町通り靭屋町への曲角」から「小熊町交差点」まで約830mの案内図

本町通りから靭屋町への曲がり角を曲がり約150mほど進むと四辻があります。

靭屋神社水路への
曲がり角

岐阜市靭屋

北緯

35

25

40.2

東経

136

46

12.2

靭屋神社水路への曲がり角

此の辻を東へ曲がると約50mほどに水路があります

靭屋神社と水路

岐阜市靭屋

北緯

35

25

38.8

東経

136

46

13.4

此の水路が岐阜町が出来た頃からの水路です
北側に流れる水路 南側に流れる水路

街道に戻り60mほど進むと古い町家を利用した料亭などがあります

料亭「水琴亭」 とうふ茶屋「万福」

次は皇太子殿下もおいでになった蕎麦屋「吉照庵」

岐阜町本陣跡
(吉照庵)

岐阜市米屋町

北緯

35

25

35.8

東経

136

45

09.4

岐阜町本陣跡の立て札 岐阜町本陣跡
         岐阜町本陣跡(賀島家)
 江戸時代、尾張藩主の岐阜御成の際に本陣をつとめた賀島勘右衛門(かしまかんえもん)家があったところです。
 賀島家は岐阜町の惣年寄(そうとしより)で本陣を勤めることから御宿(おやど)勘右衛門とよばれていました。
                       岐阜御成
 歴代の尾張藩主は在任中、一度は岐阜を訪問し、鵜飼観覧と御山(おやま=金華山)登山を欠かしませんでした。
 尾張藩主が賀島家に泊まる際は、夜間は篝火を焚き多数の侍が警備し付近は大変物々しかったといいます。 賀島家は明治24年の濃尾大震災で焼失しました。
                 御成道(おなりみち)
 家康が関ヶ原合戦野前哨戦として城下町の古劇に成功したことを記念して、のちの尾張藩主が家康と同じ道を辿り行列を進め、関ヶ原合戦の大勝をいつまでも語り継いだというこです

      その後の本陣建物
 現在の建物は明治から昭和にかけて海運業で成功し「海運王」と呼ばれた羽島市出身の日下部久太郎氏が大正初期に建築したもので、約1200uの敷地に木造2階建て和館と木骨れんが造りの3階建て洋館があり、市の景観条例に基づく重要建築物に指定されていました。しかし、歴史的な町並みの核となってきた旧家「日下部邸」でした。
 下の写真でも分かるように以前は洋館(石原美術)の南に元本陣の吉照庵がありましたが現在は県外へ移築されありません。
   かっては美味しい蕎麦屋を営業
 吉照庵(米屋町)、伊奈波神社一帯は戦災から免れた古い家並みが続きます。
 お屋敷風の建物が目印です。
 「せいろ蕎麦2段」が800円からと格式ある建物に比べ、お値段は庶民的ですので、是非お出かけ下さい。(平成元年頃)

 皇太子殿下がソバを
 浩宮徳仁親王殿下が昭和63年の未来博際「吉照庵」へ(画像を取り寄せ中)

旧日下部邸
19年9月、取り壊され高野山と名古屋八事・興正寺へ移築され元本陣跡は工事用の塀になっています。
吉照庵は
洋館(石原美術)の北側のビルで営業しています。

 

石原美術

岐阜市米屋町

北緯

35

25

36.2

東経

136

46

09.5

美術品何でも石原美術があります。

 建物は大正ロマンあふれる煉瓦造りです。
 大正3年に建てられ「岐阜都市景観重要建造物」に指定されています。

 画商さんですが、絵ばかりでなく、美術に関するもの全てが対象です。

 ただし駐車場がないのでアポイントされてから訪れて下さい
◎住所:岐阜市米屋頂24(TEL 058-262-4313)

 鮎鮨街道を石原美術から50m南へ進むと麩と麩菓子で有名な「麩兵」があります。

麩 兵(ふひょう)

岐阜市米屋町15番地 

北緯

35

25

34.2

東経

136

46

08.7
 この参道沿いは町名を”伊奈波通り”と言い由緒ある店が並んでいます。
 その中に「麩兵」(ふひょう)さんがあります。

 主な商品はおみそ汁などに入れる「麩」です。

 その種類は沢山あって見てるだけでも楽しくなります。

 しかし、有名なのは「麩」で出来たお菓子「麩菓子」です。
 この地方の古くから商家の高級お茶のうけとして、重宝がられています。
 一度お召し上がり下さい。
 口の中でべたべたとくっ付くのと多少値段が高いのが気になります。
 午後は売り切れになりますから、ご用心。 
 伊奈波神社へお詣りされた時にお立ち寄り下さい。

麩の世界
 麩はその字からも分かるように、小麦からできています。
 古くは、天平時代に唐から仏教伝来とともに日本に伝えられたと言われています。
 現代では、高タンパク、低カロリーの食品として再び注目されてはじめました。
麩の種類
 池の鯉の餌にも使われる焼麩。汁物に入れる花麩、うず巻麩、季節の花などを形どった細工麩は、なま麩です。炊き合わせに入れる角麩も、なま麩です。

「麩兵」から約20mほどで伊奈波通りへ出ます。

伊奈波通りへ出る

岐阜市伊奈波通1丁目

北緯

35

25

33.4

東経

136

46

07.7

左は伊奈波神社方向、真っ直ぐが鮎鮨街道笠松方向

この辻を左(東)へ曲がってみましょう

伊奈波通り

岐阜市伊奈波通1丁目

北緯

35

25

32.2

東経

136

46

10.3

正面が岐阜善光寺、奥が伊奈波神社です。

濃尾大震災後の伊奈波通り
         当時と比較すると後ろの山のかたちだけ
 明冶24年(1891)の濃尾大震災はマグミチュード8.0と最大規模で、直後に発生した火災も加わり市街地は廃墟と化した。
 死者245人負傷者1,260人、家屋全半壊3993戸家屋全半焼2,343戸。    (広報ぎふより)

東(左)へ曲がって80mほど進むと左側に「大雄山誓願寺」の石碑があり、
その間の道を90mほど進むと右側(東側)に「岐阜奉行所跡」の立て札があります。

岐阜奉行所跡

岐阜市伊奈波通1丁目

北緯

35

25

35.2

東経

136

46

12.4

伊奈波通りの正面は神社、左の石柱が目印 石柱の間に道を入ります
石柱を抜けて90mほどで誓願寺の鐘付き堂の向に説明版があります

古地図
説明板にある地図は下段に拡大てあります

下の説明板の堀川
説明板の「現在地」のところに縦に描かれている堀川は現在もあります。先にあった池は住宅地になっています。
馬場は現在も道路として使われています
奉行所の規模
岐阜町は元和五年(1619年)に尾張藩領になり代官が置かれ、元禄八年(1695年)には
奉行所が置かれました。 奉行所は北屋敷・南屋敷を合わせ東西六十間(約108m)・
南北百二十間(約216m)の敷地に堀をめぐらし、敷地内には奉行所・門番屋敷・囚人牢屋・
道場・同心屋敷・手代屋敷などがありました。(現在の新桜町から末広町あたりまで)
馬場は長さ二町(約180m)巾八間(約15m)立派なものがあったようです

下は現在の地図です。堀はそのままの
古地図に合わせて現代の地図は東を上にしてあります。

古地図にある山の絵は稲荷山
左の山頂近くにに稲荷神社(現在は美峰稲荷神社)
 山麓の中央あった東照宮御朱印倉は現在は稲荷神社になっています。(下の写真参照)
古地図の馬場の北にある橋
その水路(堀)
古地図にあるカーブ地点の橋
その水路(堀)

伊奈波通りを横断する堀(画面の左に橋の欄干が見えます)春は枝垂さくらが綺麗です。
正面に見えるのが「岐阜善光寺」です。その上が伊奈波神社です。

 奉行所側は堀のまま  総(惣)門跡側はコンクリートで蓋がしてある

古地図にある東照宮御朱印倉あたりは稲荷神社

古地図にある稲荷神社は
現在は美峰稲荷神社として現存します。(上り口)

(参考)ここより少し遠い場所ですが「奉行所跡」と間違いやすい「長良川役所跡」を紹介しておきます。

長良川役所と
付問屋跡

岐阜市御手洗

北緯

35

26

00.8

東経

136

46

37.7

場所は長良川の近くです

長良川役所と付問屋
ここには長良川役所と付問屋がありました。
長良川役所は、元和五年(1619年)に尾張藩が美濃に五万石の領地を与えられる以前からあったといわれています。
寛永十三年(1636年)までは対岸の早田村にありましたが、川の流れが変わるにともなって、ここに移りました。
役所の役目
役目は長良川を下る材木筏と上流から下流へ送られる船荷や荷船
(幕府や大尿の御用船荷を除く)を管理し、役銀を徴収することでした。
役所には尾張藩の役人(手代)が二人常駐し、その下には付問屋が置かれ日常業務荷従事しました。
代々付問屋を勤めた西川家は、付問屋の業務のほかに、材木筏の支配と
岐阜町へ揚げる船荷物の荷揚げの支配をしていました。
当時の絵図
絵図は上下(南北)が反対ですから役所と付問屋は道の向側の建設会社の敷地にあったようです。

寄り道をしましたが奉行所跡から伊奈波通りへ戻ると正面に昔の味で有名な「あじろ亭」があります。

あじろ亭

岐阜市伊奈波通町1丁目

北緯

35

25

31.6

東経

136

46

10.4

大正時代の味「ハヤシライス」
 同じく此の参道沿いに大正ロマンを思わせる古びた建物の、洋食屋さんがあります。
「あじろ亭」と言います。
 評判なのは「ハヤシライス」です。
開店当時の大正時代は「ハヤシライス」が大変お洒落な食べ物だったのでしょう。 それが現在まで引き継がれて、今では大正時代のペンキの剥げた洋館と共に、味わうことが出来るのがロマンでした

 そうなんです。 「でした」になってしまいした。
先日、写真を撮りに行きましたら、何と今にも壊れそうだっで戦火からも逃れ、生き残った建物が新しくなっていました。
 がっかりしましたが、でも、味は大正ロマンを引き継いだ味と思いますので、是非お試しさい。
750円だったと思います。

次は伊奈波神社へ行って見ましょう。

伊奈波神社

岐阜市伊奈波通

北緯

35

25

32.2

東経

136

46

16.4

春の伊奈波神社

 春の伊奈波さん(地元の人はそう呼びます)の参道は桜が綺麗です。
 坂を上がって社務所の前まで来て、振り返ると桜のトンネルの向こうに岐阜の町並みが見えます。

 現在のような民間の立派な結婚式場が出来る前はここで結婚式を挙げるのが、当たり前でした。
 私も遙か以前に伊奈波さんで結婚式を挙げ、此の桜の下で記念写真を「瀬古写真館」に撮ってもらいました。
 勿論モノクローム写真でした。今は綺麗なセピア色になっていると思います。

 此の奥の太鼓橋の向こうにある階段を上がって山門にたどり着き、さらに階段を上がって拝殿があり、その奥に本殿があります。

 もともと岐阜公園付近にあった古い神社で、斉藤道三が油売りから身を起こして稲葉山(金華山)の稲葉城主、土岐氏を追放して斉藤道三を名乗った時に現在の地に伊奈波神社を移して祀りました。
 その後、斉藤家は娘婿の織田信長に山城も奪われ、織田信長は天下をねらう拠点として、「井ノ口」村と呼ばれていた此の地を中国の故事から習い「岐阜」と改め、天下統一を目指しました。

 此の境内で毎年正月に盛大に行こなわれる”左儀長”行事も、一時は「ダイオキシン」の問題で取りやめになっていましたが、近年、再び再会されたようです。

満願寺跡
境内の右山麓(赤い車の向こう辺り)にありました。
江戸時代には境内に満願寺という寺がありました。此の寺の境内では小屋が組まれ、美濃で最も古い人形浄瑠璃が
盆と春秋の彼岸に上演されました。 元禄に入ると、江戸や上方で流行った近松門左衛門の作品も上演され賑わったそうです
そのほか相撲興行も許され満願寺の芸能は岐阜町の人々に支援されましたが天明五年(1785年)に尾張藩から芝居興行
禁止令が出された以降徐々に廃れ明治に入って姿を消しました。
岐阜県指定重要文化財
美濃国第三宮因幡社本縁起みのこくだいさんぐういなばしゃほんえんぎ)
縁起とは、社寺にまつわる古来からの伝承や祭祀(さいし)について書き記した文書のことです。
伊奈波神社に伝わる縁起の奥書によると、天平十四年(742年)が紛失して現在は文明四年
(1472年)に書き改め奉納されたと伝えられています。

岐阜にあった「善光寺本尊」

岐阜伊奈波善光寺安乗院
織田信長公が善光寺如来の本仏さまを奉安置野旧跡

寺の由来とご本尊の流浪
 寺は戦国時代に、武田信玄によって信州から甲府に移されてお祀りしていた本尊を織田信長が武田家を滅ぼし、
岐阜で祀るために奪いかえしてきました。
その後、信長の長男、織田信忠(天正十年(1582年=関ヶ原合戦の18年前)がこの地に寺を建てお祀りしました。
 その後、「本能寺の変」で織田父子が自刃し、愛知県甚目寺町に移され、次に浜松、そして甲府へ戻されましたが、
豊臣秀吉により京へ移してお祀りしましたが秀吉の病状が悪化しましたので、恐れて長野に返されました。
今あるこの寺の本尊は有名な「長野の善光寺」さんの分身と言われています。

ご本尊のご開帳
戦前は七月十七日に一日だけ公開する「御開扉(ごかいひ)」が
行われ大勢の人が三敗したと言われていますが、
太平洋戦争の影響で「御開扉」も催されなくなりました。
しかし、最近の情報によると2009年から、昔どおりに
「御開扉」が行われることになるそうです。

本尊は高さ約30センチの木像
本堂の中央にある宮殿(ぐうでん)と言われる場所に収められて
いる本尊は実際に見た人は居ないのですが約20年前に
テレビ取材のために一度だけ開かれたことがあるそうです。

伊奈波神社境内
長い伝統の左儀長も復活されました

戦国時代
 伊奈波神社の大きな鳥居の北に善光寺と言う寺があります。
 入り口には織田信忠(信長の長男)の創建を示す石柱があります。
 善光寺と言えば「長野」ですが、戦国時代に善光寺の本尊が転々としました。

真言宗、岐阜善光寺安乗院
伊奈波神社参道の脇にある善光寺の
本尊は善光寺如来
多くの人がお参りに来ます。

伊奈波神社から鮎鮨街道へ戻り南へ170mほど進むと右側(西側)に高札場跡の説明板があります。

高札場跡

岐阜市白木町

北緯

35

25

26.8

東経

136

46

03.4

目印の説明が難しい場所ですが、交差点の西南の角の消火栓の横にあります。

高札場跡
ここは岐阜町の入り口に当たります

高札場跡から40mほど進んだ交差点は「総(惣)構え跡」で

総(惣)構え跡

岐阜市白木町

北緯

35

25

27.1

東経

136

46

03.8

北側には土塁もあった
ここには道幅いっぱいが岐阜町の総構えだったと言われています。
そして東西には堀が掘られ岐阜町の入り口でした。

道路の半分が旧堀でコンクリートで蓋がしてある。 山側を辿ると奉行所跡へ暗渠は続きます(左側)

総構え跡から15mほど進んだ西側に御鮨街道の道標があります。

御鮨街道道標

岐阜市白木町

北緯

35

25

26.2

東経

136

46

03.4

看板に隠れて見落とし易いのでご注意

御鮨街道道標から約100m進むと笹土居町四つ辻へ出ます

笹土居町四つ辻

岐阜市笹土居町

北緯

35

25

20.8

東経

136

46

01.9

角にガソリンスタンドがあります
(最近はこうした目標も廃業などで様子が変わるので心配です)

笹土居町交差点を左(東=山側)へ曲がり50mほど進み右へ曲がり20mほどで「善行寺」へ出ます

善行寺

岐阜市笹土居町

北緯

35

25

21.5

東経

136

46

04.4

大功山舎利院「善行寺」

1600年関ヶ原合戦の前々夜の善行寺円清和尚の動き

「池田輝政に密通」(『岐阜志略』)
 木曽川での防戦に失敗して岐阜城へ敗走した、秀信はその日(22日)夜、軍議を開き岐阜城防衛を詮議しまた。
 しかし、この席にも善行寺和尚「円清」は列席していました。
 軍議のあと「円清」は夜中に印食(いんじき)方面に陣を張る「池田輝政」に軍議内容を報告し軍を密かに鶉村(うずら)から東縄手(畷町)を経て岐阜城裏門に案内しました。
 ここは軍議では道も険しく容易に近づかないと判断し兵が少ない箇所であった。
「岐阜城落城」
 翌朝、岐阜城総攻撃であっけなく落城、その日のうちに城主「織田秀信」は出家、重臣の「木造」「百々」は池田輝正の配下に付くことで許されるなど、いかにも手回し良く事が運びました。
 これらは、全て「円清」和尚の段取りと言われています。

「家康」江戸出発
 家康は岐阜城落城の報を聞いて9月1日に江戸を出て、10日に熱田へ、11、12日清洲に逗留、13日清洲出発。
 尾州葉栗郡北方村で木曽川を渡り、濃州羽栗郡円城寺(現在も同じ)に着岸、当時”筏(いかだ)支配”の有力者「野々垣源兵衛」の案内で野々垣邸に入り小休。
岐阜城残党に備える
 敵に備え間道を利用し、中野、伏屋、三宅、上印食、両天橋を経て細畑に至り、加納八幡町、安良町、柳町、新町北折、広江経由で笹土居の「善光寺」に入りました。
「御成り道」
 以上のルートは、後の尾張藩主が代替わりの都度この道を通って岐阜へ来訪したので、「御成り道」と言われるようになりました。

善行寺の後ろの山が権現山(駿河山)です

「権現山」(駿河山とも言う)

岐阜市駿河山

北緯

35

25

06.8

東経

136

46

46.5

「善行寺」と権現山

「権現山」「駿河山」
 この時「石田三成」の兵が家康を狙っているので、「善行寺」へ入ったと見せかけ、家康を裏山へ隠し、難を逃れたと言います。(円清」和尚の演出かも?)
 この裏山はその後「家康」にちなんで「権現山」「駿河山」と言われるようになりました。

警備を堅め!
 その夜(13日)、「家康」は2週間前まで「織田秀信」の重臣だった「百々綱家」宅に泊まっています。(これも「円清」和尚の仲立ちか?)
翌15日は関ヶ原決戦!
 
ちょっと考えられない時間運びですが事実だそうです

その後の「円清」和尚
 「円清」は撞鐘を陣鐘として、自ら陣屋におもむき供奉し、関ヶ原合戦後にはわざわざ、今須宿まで「家康」を訪ね祝辞を述べたり、いろいろ「家康」に取り入っています。
 「家康」は濃尾の敗軍の残党の内偵を命じ、後に濃尾の寺院の総録を与えています。
 また、山号も大功山舎利院「善行寺」と命ずるなど「家康」により寺の格式はあがりました。

元の鮎鮨街道へ戻り170m南へ進むと小熊町通りへ出ます

小熊町通りへ出る

岐阜市小熊町1丁目

北緯

35

25

17.2

東経

136

46

00.7

真っ直ぐは鮎鮨街道、右は美江寺観音へ

小熊町通りを右へ曲がり西へ510mほど進むと美江寺観音の前へ出ます。

美江寺観音斉藤道三

岐阜市美江寺町

北緯

35

25

21.9

東経

136

45

40.7

斉藤道三と美江寺観音美江寺観音の起源 
 元々、美江寺観音は伊賀国名張(三重県)にありました。
養蚕が盛んな本巣郡十六条村へ室町後期に移して祀られました。
 十六条村は条里制度の名残がある村名です。(現在は巣南町美江寺字十六条です)
大化改新後、推し進めらた条里制度については「中山道美濃路便り”河渡宿”」にあります。”ここ”をクリックして下さい)
 当時の十六条村も近郷近在からの参拝者が絶えず門前町も出来て賑わいました。

美江寺観音略奪  
 説一、一介の油売りから身を興し、貯めた銅銭何万貫を寺へ寄進し、寺を乗っ取り(「常在寺」は此の頁にあり)、
 その後坊さんの身ながらの守護代「斉藤???」を滅ぼし、斉藤道三と名乗り、守護職「土岐氏」おもを倒して
此の地方を治める身となりました。斉藤道三は町を発展させるために十六条村にあった美江寺観音を
井ノ口村(現在の地)へ強引に移して祀りました。
 説二織田信長が「斉藤家」を滅ぼし、清洲からこの地に居を移し、地名を「井の口」里から「岐阜」に改め、
「楽市楽座」を許可し城下町を発展させる起爆剤に十六条村の信仰が厚い「美江寺観音」を強引にもってきた。

その後の十六条村「美江寺」
 持ち去れらた地には、その後「美江寺村」の名前だけが残されました。(現在は町村合併により本巣郡巣南町美江寺
となりました)江戸時代に脇街道が整備され「中山道、美濃路”美江寺宿”」として生き残りましたが、
旅人の宿泊も少なく宿の賑やかさあまりなかったようです。

境内には寄進されたふるい灯篭などが残っています

この灯篭は安永九庚子(かのえね=1780年)年

キヨス本町(愛知県清州町本町)柴山藤? 元治元年九月吉日(1658年)
こちらの灯篭は享保十二稔(1727年に寄進されました)

国重要文化財

 この美江寺には乾漆十一面観音像があり、国重要文化財に指定されています。
 養老三年(719年)の作と伝えられています。
 金剛仏像が普通の時代に乾漆の仏像が地方に有るのは、珍しく国重文に指定されている理由だそうです。
 しかし、そんな大切な国の宝が前の空襲からよく逃れられたと思います。
 あのあたり一体は空襲で焼け野原となり、勿論、美江寺観音の本殿も焼け落ちてしまいました。
 当時の岐阜には大きな建物もなく一夜で焼け野原となり柳ケ瀬から長良川の堤防が見えたくらいです。
 今は本堂も立派に復興しましたが、養蚕が差かんっだころの様なにぎわいは見られません。

蚕祭りと猩々(しょうじょう)踊り
 以前、養蚕が盛んだった頃、春には美江寺観音から山車が出て、その上で猩々が髪を振り乱して踊り、持った柄杓から紙吹雪をまき最後に柄杓の底の抜け具合で蚕の繭の出来不出来を占った祭りがありました。 そのとき撒かれた紙を持って帰り神棚にお供えすると、大きな繭が出来ると、言い伝えられていました。
 猩々の面は室町時代の作と伝えられ岐阜市の重要文化財に指定されています。 かっては盛んだった養蚕も多くの人手と広い桑畑を必要とする為と、終戦後の食糧難時代に普通の畑に変えられ、その後人手が豊富な中国に繭生産に奪われ、この地方養蚕業も衰退しましたが、お祭りは盛大に毎年3月の第1日曜日行われています。

再び「小熊町交差点」まで戻り鮎鮨街道を更に南へ
次の区間は「小熊町通り」〜「元町二丁目分岐点」まで案内します。

案内図(3)

赤線鮎鮨街道です
小熊町交差点」から元町二丁目分岐点」まで約970mの案内図

    小熊町通りから南へ220mほど進むと右側に大きな町屋があります。

岡本商店

岐阜市金屋町1丁目

北緯

35

25

10.2

東経

136

45

58.4

織田信長が活躍した時代に創業し、四百四十四周年。
 宮中に魔よけの吊(つ)り灯ろうを納めてきた百八軒の御鋳物師(おんいものし)のなかの1軒。
今も家業を守っているのは、全国で二十数軒。

岡本商店から310mほど進むと若宮町通りへ出ます

若宮町通りへ出る

岐阜市若宮町1丁目

北緯

35

24

59.6

東経

136

45

56.8

若宮町通りへ出て鮎鮨街道の西数十m北側に「国有形文化財・濃尾震災記念堂」があります。

国有形文化財
濃尾震災記念堂

岐阜市若宮町

北緯

35

25

00.5

東経

136

45

53.6

若宮通りの北側にあり、間口が小さく見過ごしてしまいそうな場所にあります。
維持管理が大変な震災祈念堂

       震災の二年後(1893年)衆議院議員天野若円により建立
 記念堂は第一回衆院選に当選した天野若円が全国から寄付を募って、地震から二年後に慰霊のために建てられた施設ですが、檀家組織がなく特定の宗派に属することなく、維持は記念堂の建立者のひ孫で、管理者の西村道代さんや地元の人々らが管理に尽力し毎月二十八日の月命日に法要を続けられています。

             文化庁登録有形文化財
 被災者を供養した震災記念堂として日本で初めて建てられ国の有形文化財に登録されています。
 なお、関東大震災の後、東京の震災記念堂(現在の東京都慰霊堂)を建設にあたり設計者の伊藤忠夫が訪れ東京都慰霊堂設計の参考にしたそうです。

強運にも岐阜空襲で焼け残る

                岐阜空襲でも焼け残り無事!
 本堂は昭和20年(1945年)7月9日の岐阜空襲にも周囲は全焼したにもかかわらず、無事戦災から逃れることが出来無事でした。
                     維持管理はどうしてるの?
 檀家のない「堂」の維持管理は建立者天野若円(じゃくえん=1951〜1909)衆議院議員のひ孫西村道代さんの父、天野真徹氏(故人)が設立した三陽電機製作所(現レシップホールディングス=本巣市上保・車両用電子機器製造)の株の配当が充てられて居るそうです。

しかし後援者も高齢化となり運営が困難

 寺の耐震工事も行われ、毎月28日には法要も行われていますが平日は門は閉じられています
    (中日新聞「ぎふ知り探検隊」より

NHKのETL(教育TV)にも取り上げられてたが東日本大震災前だった!

毎月28日
明治24年10月28日にちなんで毎月28日に法要が行われます
(20011年1月11日にETL(NHK教育TV)で放映された「歴史は眠らない」より)

     濃尾震災で倒壊した岐阜市内の建物
           (岐阜市歴史博物館提供)
      濃尾震災とは
 明冶24(1891年)に発生し国内最大級の内陸性直下型地震で旧根尾村では道路や田畑が6bも隆起したマグニチュード(M)8・0以上とされる地震で、被害は滋賀県、福井県や大阪府までに及び、死者は計7273人と言う甚大な被害を出しました。

地震発生直後の伊奈波神社通り(月刊ぎふプラザ=岐阜市歴史博物館蔵)

長良川鉄橋
橋脚が折れ、橋の上部は上流の法に外れてしまっている。
開通間もない東海道線が走っていた。
(月刊ぎふプラザ=岐阜市歴史博物館蔵)

今年(20011年)1月11日にETL(NHK教育TV)で放映された
「歴史は眠らない=地震列島日本の教訓」から当時の濃飛震災の状況と
今回の東日本大震災後の状況を比較して見てください。

濃飛震災の状況と今回の東日本大震災後

今から120年前(明治24年=1891年)に発生した地震の地域と震度

地震の規模はマグニチュード8.0で日本内陸で史上最大の規模と言われ
死者は7000人以上と言われています
(20011年1月11日にETL(NHK教育TV)で放映された「歴史は眠らない」より)

当時の模様を知らせる錦絵
(20011年1月11日にETL(NHK教育TV)で放映された「歴史は眠らない」より)

名古屋市では
震源は岐阜県根尾村でしたが数十キロ離れた大都市名古屋でも大きな被害が発生しました。

日本国憲法も発布され国の形態が着々と整備され新しい時代を目指した中に起きた災害でした

新しい時代の象徴だった建物もほぼ全壊
完成したばかりの西洋式の「名古屋郵便電信局」も一瞬で瓦礫となりました。
(20011年1月11日にETL(NHK教育TV)で放映された「歴史は眠らない」より)

岐阜市では
震源から約30キロの岐阜市の被害は甚大で市街地の住宅はほぼ全戸倒壊

岐阜市もほぼ全戸倒壊、その後出火により全焼
震源の根尾村から30キロ程の岐阜市内もほぼ全戸倒壊し市内4箇所から発生した火災も 
3ヶ所は住民により消化できたが残る1ヶ所は力尽き消火できず、この火が倒壊した全市に広がり
2日間かかり倒壊した瓦礫も倒壊を免れた家も焼き尽くされました
上の画像は岐阜市内伊奈波神社付近の画像と思われます
(20011年1月11日にETL(NHK教育TV)で放映された「歴史は眠らない」より)

震源の根尾村では

当時の根尾村
付近の村々約千戸が倒壊し、倒壊を免れたのはわずか8戸だったそうです。
(20011年1月11日にETL(NHK教育TV)で放映された「歴史は眠らない」より)

現在の根尾村
(画面中央左寄りから道路を横切って断層が走っています)
(20011年1月11日にETL(NHK教育TV)で放映された「歴史は眠らない」より)

高さ約6mの断層が走る村の真ん中
(阪神淡路震災では1mの断層)
(20011年1月11日にETL(NHK教育TV)で放映された「歴史は眠らない」より)

その後日常生活のため断層を登るための道や風雨により断層の面影は少なくなっていますが
現在も村の中を断層がはっきりと残っています。

 

濃飛震災の教訓
国と市町村長のリーダーシップ

陸軍第三師団長「太郎桂」の決断
師団長の桂太郎(後の総理大臣)は、この濃飛震災で日本で初めての軍隊による救援活動を実施した。
しかし、これは師団条例にない行為であったが当時20万人の名古屋市民の混乱を助けるため独断でした。

名古屋の第三師団本部建物も被災
(20011年1月11日にETL(NHK教育TV)で放映された「歴史は眠らない」より)

時の総理大臣「松方正義」もリーダーシップを発揮
地震発生の夕刻、被災地へ5千人の兵士を派遣
時の総理「松方正義」も翌日閣議を開き国会開催までに1ヶ月あるため天皇に勅奏を決定

落下した橋の応急架橋、道路の修復などに活躍する兵士
(20011年1月11日にETL(NHK教育TV)で放映された「歴史は眠らない」より)

4千500戸の大垣市で一人の飢え死にもなし
政府が150万円の復旧費を出すことに対し全国から1ヶ月に14万円(現在の貨幣価値で2億円相当)
が集まり被災地に配られた新聞記事も見られました。
この時の政府行動と民間の炊き出しなど救援が現在の災害対応モデルとなったそうです
そのベースは大きな河川が集中し、度重なる災害対応できるこの地域特有の特異性と
江戸時代から行政に頼らないの互助活動の素地がとも言われています。

         薩摩藩に多大な資金と犠牲を強いた三川分離事業
 治水の整った江戸時代にも木曾・長良・揖斐の三川は度々大規模な洪水で流域農民を困らせた。
 これを鎮めるため徳川幕府は御手伝普請として三川の治水を薩摩藩に命じ。薩摩藩は大阪商人に40万両の借財を残し終了するも現地の藩士総勢947名のうち工事中51名自害、33名病死、工事完了後に家老平田靭負画自害の結果となった。
                          地域のパートナシップの芽生え
 この頃幕府役人の「薩摩藩士に草鞋や米を安く売るな」とか工事に協力するな」などと言われたが、目に余る嫌がらせを見て地域住民も自分たちの村の堤防工事をしてくれる薩摩藩士の味方になり

                 薩摩藩御手伝普請後余話
 この工事による治水効果は、木曾三川の下流域300か村に及んだが、皮肉にも堤完成後には洪水の回数がむしろ増加したと言われている。
 原因は完成した堤が川底への土砂の堆積を促したためと指摘されている。
 そのため薩摩藩は事業終了後も代官を現地に派遣するなど出費を強いられている。
 薩摩藩は事業着手前に既に66万両もの借入金をしており、莫大な財政危機を迎えて100年後の幕府転覆の原動力になったとも考えられます。(私見)
 完全な三川分離は明治33年「お雇い外国人」ヨハニス・デ・レーケの指導によって完成された。

効を奏した公助・共助・互助の組合せ
本題から反れましたが濃飛震災の民間の救援活動はこの木曾三川氾濫による周辺農村の
相互互助活動が生活基盤に根付いて居たとも言われています。
今は行政による形式的な防災行事でなく濃飛震災から現在も引き継がれ、
毎年行われる大垣市十六町の町内全戸による炊き出し訓練など
地域ぐるみの防災の模様も紹介されていました。

                うらやましいリダーシップ
 濃飛震災時の総理「松方正義」は閣議の翌日現地に赴き被災状況を目の当たりにして、現地で県会議長の要請を聞き入れ、国会で岐阜県に150万円、愛知県に75万円(計225万円は当時の国家予算の3%)の災害復旧費を決定した。
 岐阜県は150万円のうち140万円を長良川堤防復旧費に回し現在の堤防の基礎を築いたと言われています。
 折角の政府からの復旧費のほとんどを堤防改修に使い、現在なら首長の土建業界とのつながりを疑いを掛けられるところですが、住民はこの莫大な復旧費で雇用を確保され地域の復旧につながり被災者再建もかない全て前へと進むことが出来たと満足したそうです。墨俣村(画像の下には墨俣(すのまた)村とあります。)

先ほどの交差点を左(東=山側)へ曲がり80mほど進むと神社前に「御薗の榎」があります。

御薗の榎

岐阜市若宮町1丁目

北緯

35

24

59.6

東経

136

45

60.0

信長が認めた楽市場の市神
永禄十年(1567年)9月 織田信長は、稲葉山城を攻略し、美濃一国支配を実現しました。
十六世紀前半、すでに上加納村には楽市楽座が存在しましたが、信長は、制札を与え商工業者を保護育成策を打ち出し
(楽市楽座)、薗権利を認めました。この榎は、楽市場(上加納後薗)に市神としてあったものです。
榎は嘉永五年(1852年)に枯木となり植えなおされ、明治初年の道路改修工事に際して、橿森神社大門へ移植されました。

「御薗の榎」の向こうに橿森神社があります

橿森神社
(かしもりじんじゃ)

岐阜市若宮町1丁目
(昔は駒爪町)

北緯

35

24

59.2

東経

136

46

00.4

この神社の市隼雄命(いちはやのみこと)の
父は伊奈波神社、母君は金神社

両部鳥居

平成十年の台風7号により両部鳥居が倒壊
現在再建計画中

駒爪岩
神社の裏山に神が天馬にまたがり休息した時に、天馬が
残したという爪痕が残る岩かあります。

駒爪町の由来

今は岐阜市殿町1丁目

北緯

35

24

58.6

東経

136

46

02.0

橿森神社駒爪町由来(美園町)

 瑞龍寺の反対側の麓に、地元では「かしもり神社」と呼ばれる神社があります。
 創建は第十二代景行天皇の御代と伝えられる古い神社です。
 慶長五年(1600年)に兵火に見舞われ、慶安二年(1649年)にも火災に遭ったと記録があります。
 この境内に
織田信長による楽市楽座の「市神様」が祀られている榎木があったそうです。
 今の榎木は明治になってから植えられたものです。

 社殿の背後にある「駒の爪岩」は大昔”神人”が駒に乗ってこの地の降りられたとき岩に爪の跡が残った由来があり、このあたりは町名も「駒爪町」でした。
 「moriy@シルバー」の生まれた地でもありますが、戦後復興時に駒爪町の大半が道路と公園になり町名は消えました。

此の神社から稲葉神社方面へは強制疎開帯(強制的に家を壊し空き地にする)のお陰で稲葉神社付近は焼け残りました。

山の裾を回り東へ進むと「瑞竜寺」があります

両側の民家を抜ける参道の奥に山門があります。

瑞龍寺

岐阜市寺町

北緯

35

24

57.3

東経

136

46

10.5

               毎年3月中旬には本堂を開放
 瑞龍寺は、「ぎふ梅林梅まつり」が開催中の2日間(今年は3月7・8日)は、本堂が特別に一般開放されます(無料)。 梅の花を楽しめる「梅林公園」からも、歩いてすぐのところにありますので、普段は道場になっているので修行の邪魔になるので参拝できません。そんな瑞龍寺の本堂を、「ぎふ梅林梅まつり」期間中は参拝できるので是非見ておきたいものです。
山 門 境内に六つの寺(塔頭六ケ寺)がりあます
山門を入ると右(西)側に「悟渓国師墓」があります。その脇に厚見寺五重塔礎石があります。

六つの寺(塔頭六ケ寺)の奥に瑞龍専門道場があります

                    瑞龍寺
 臨済宗妙心寺派のお寺で、金宝山と号します。応仁元年(1467)に土岐市の守護代・斎藤妙椿が、主君の美濃守護・土岐成頼の菩提所として建立し、悟渓宗頓(ごけいそうとん)国師を迎えて開山しました。
 このお寺には斎藤妙椿の墓、土岐成頼の墓、悟渓国師の墓、厚見寺跡などの史跡も残されています。
                             (現地説明板より)

瑞龍寺道場

                       瑞龍寺寺宝
          岐阜市指定重要文化財 絹本著色土岐茂頼像

 土岐茂頼(生年不明〜1497年没)は、この絵画を所有する瑞龍寺を創建した人物です。
 土岐茂頼は、室町時代の美濃国守護として、美濃地方の政治・経済・宗教に影響を与えました。
 画面に描かれた土岐茂頼像は、僧形の人物ですが、武将らしい風貌がよく表れています。
 また、椅子の文様も丁寧に描かれています。
 さらに、画面のうえには、賛(人物を賞する漢詩文)が記されています。

関ヶ原合戦の前哨戦で岐阜城攻撃の時、瑞竜寺裏山に「瑞竜寺砦」があり激戦となりました。
しかし、当時の以降はなにもありません。

上加納山の麓の名刹瑞龍寺岐阜市寺町)

悟渓国師墓(岐阜県史跡)
 悟渓国師は慶仁元年(1467年)時の守護代「斉藤妙椿」の援助により、この地に瑞龍寺を開山しました。
 この国師の墓が史跡に指定されています。

厚見寺跡(岐阜県史跡)
 厚見寺は白鳳時代に建立されたと記録のある寺で、その三重孔式の塔心礎石があり、これも県史跡に指定されています。

瑞龍寺境内から見た「砦」右翼の
「駒爪町」裏山

瑞龍寺砦

 岐阜城の山続きで尾張方面に対しての備えに「瑞龍寺砦」がありました。

 「金生山瑞龍寺」の裏山で関ヶ原合戦の前哨戦では、大垣城に本陣を構えた石田三成の援軍「柏原彦右衛門」兵2千人が守りに付いていました。

敗走

慶長5年8月23日午前6時 福島正則の将「井伊直正」ら軍勢5千余騎に攻めたれました。

瑞龍寺奥「瑞龍寺砦」
のあった裏山

             関ヶ原の合戦前哨戦瑞龍寺砦の戦い
 慶長5年8月23日午前6時(関ヶ原合戦20余日前)前日の木曽川渡河後、笠松「米野」で岐阜城主「織田秀信」重臣「百々綱家」軍を激戦の末、破り”領下”「閻魔堂」に陣を布いた「織田秀信」も敗走させた「福島正則・池田輝政3万数千余騎が一夜の休息ののち、三手に分けて岐阜城の攻撃を開始しました。
 その一手が「瑞龍寺砦」と「稲葉山砦」に襲いかかりました。
                            勢力差
 砦側(西軍、岐阜城主「織田秀信」の配下)柏原彦右衛門同内膳川瀬左馬助松田重太夫兵2千人を砦外郭に500人、「稲葉山砦」に500人け、残り1000人が砦の守備に着きました。
 攻め手側(東軍、浅野幸長一柳直盛井伊直政兵5千人
                           地元情報
 当時、付近は水田と沼地が多く砦にたどり着くのに難渋したようですが、攻め手側の先鋒隊の浅野右近は生国が美濃で、地理に詳しく瑞龍寺東の田間の細道を密かに通り、兵1500人を率い瑞龍寺裏山に上り「砦」の搦め手(後方)に達し合図の”馬印”を上げました。
 これを見た砦側は砦を出ましたので砦は手薄になりました。
                            側面攻撃
 もう一人の将「浅野庄右衛門」はこの間に瑞龍寺の西瓜生口(現殿町より柏森神社の右登り道、この頁下部に写真有り)より坂道をよじ登り、攻撃しました。
                          砦の外郭防御
 500人で防御していたた外郭軍もたまらず間道沿いに岐阜城へ逃げ帰る途中、東軍の追撃にあい大打撃を受けました。
                            稲葉山砦
 井伊直政軍により攻撃されあっけなく敗退。
                            砦陥落
 「瑞龍寺砦」「稲葉山砦」二つの砦が東軍の一部隊により陥落したのは、攻撃開始から四時間後の10時頃でした。
 両軍の死者は城方(西軍)600人余、東軍は300人余と言われています。
史跡
 境内は広く中に多くの寺院があり史跡も多くあります。

「隠山円照禅師墓」
「虎穴塔」
「紙本著色斉藤妙椿像」
悟渓国師墓」

等が静かな境内に広がっています。

再び鮎鮨街道へ戻り南へ280mほど進むと金園町通りへ出ます

金園町通りへ出る

岐阜市金園町2丁目

北緯

35

24

50.6

東経

136

45

55.1

この金園通りを右へ曲がり50mほど進み、1本目の道を南へ、66mほどの左に織田塚があります。

織田塚

岐阜市霞町(かすみちょう)

北緯

35

24

48.6

東経

136

45

52.7

「織田塚」は近所の家に挟まれた狭い敷地にあり、知らずに通り過ぎてしまいそうです。

                美濃攻撃
 織田信秀(織田信長の父)は天文十三年(1544年=関ヶ原合戦の60年余前のことです)に越前・朝倉孝景と連合軍をつくり美濃の斉藤道三を攻めます。
 織田信秀軍の蜂須賀などは江南方面に進出し、土岐二郎は席田(むしろだ=現本巣市席田)あたりまで侵入したが斉藤利政(道三)は采配よろしく織田軍を撃退し織田軍は攻撃に難渋します。
                  織田軍夜襲を受ける
 織田信秀は兵を休めるために上加納あたりに兵を集結して陣を張りました。
 しかし、夕刻に稲葉城を下りた道三は隠密裏に織田軍を包囲し月の出を合図に総攻撃を加えました。
                     織田軍混乱
 不意を突かれた織田軍は大混乱に陥り、敗退し尾張清洲へ逃げ帰りました。
 この戦いで織田軍は信長の叔父「織田輿次郎信康」(犬山城主)、織田因幡守(
岩倉城主)、青山与右衛門、毛利十郎、寺沢又八などの重臣を失いました。

          はじめは「物見塚」と呼ばれいました。
 合戦のあと上加納の百姓達は一千人に余る戦死者を、この地(岐阜市霞町)にあった浄泉坊(円徳寺)埋葬して、土を盛り上げ塚を作りました。
 あまり塚の土盛りが高いので物見塚と言われましたが、何時とはなしに「織田塚」と呼ばれるようになりました。
 のちに浄泉坊(円徳寺)現在の神田町移転するに伴い、後に塚もこの地へ移転した現円徳寺の境内に改葬され、現在は同寺の境内に碑がありますます。

「織田塚」を南へ30mほど進み、西へ160mくらい進むと長良橋通りへ出ます。
長良橋通りを南へ80m程の西側にのところ「円徳寺」があります。

制札を五枚も持つ「円徳寺」
織田塚改葬地

(岐阜市神田町)

北緯

35

24

44.1

東経

136

45

45.3

                   円徳寺(旧称法泉寺浄泉坊) 
 寿永二年1183年鎌倉時代=平家が西海に落ちた頃)に比叡山(天台宗)の寂円律師が長旗(この地から南東に
150mほど)の地に法泉寺を創建しました。
 第二世寂照が親鸞聖人に帰依して真宗に改宗し浄泉坊の名を賜りました。
                       織田信秀軍と斉藤道三軍の戦い
 天文(てんぶん)十六年1548年)秋、犬山城主織田信秀(信長の父)の軍が稲葉城の斉藤道三を攻め大敗し織田信秀ら五千人の戦死者を合葬した塚を織田塚といいます。
                           織田信長の楽市楽座
 永禄七年1564年)秋、稲葉城に織田信長が入城し、その本陣跡(いもあらいの里)四町四方をこの寺に寄進し、その門前に楽市楽座を開かせました。
                     岐阜城主織田秀信(のぶかつ=信長の孫)
 関ヶ原の前哨戦に敗れた岐阜城主の織田秀信は、この寺にて剃髪し仏門に入り紀州高野山に送られました。

       楽市楽座制札 
 信長は岐阜に入ったときこの寺に「楽市楽座」「来行者保護」などの権利を保証する”制札”を三枚出しました。
         (同寺には全部で五枚保存)


         「楽市楽座制札」とは
 一、諸商人の往来の自由・諸課税の免除・身分開放     
 一、押買、狼藉、けんか等の禁止                 
 一、警察力の排除        
             を定めたものです。

複製の「制札」

              「制札」
  室町時代から時の権力者が住民などに寺などを代表して「狼藉禁止」等約束する木製の札で当寺にある屋外に出すものは珍しい。
                (「広報ぎふ・信長公特集」から)

寺宝
 織田信長の嫡孫である織田秀信は、岐阜城主であった慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの前哨戦で西軍に属して戦いました。
しかし、岐阜城を攻め落とされ、円徳寺(当時の浄泉坊)で剃髪し僧となりました。そのため円徳寺には秀信や織田家ゆかりの
品が多数伝わっています。
梵鐘 梵鐘に刻まれている銘には、織田信長が陣地の跡を寄進
     して、この地に寺が移転したこと、またこの梵鐘を鋳造して
     寄進したことなどが永禄七年(1564)十一月十一日の日付とともに書かれています。             
本願寺顕如消息 顕如は石山本願寺で一向一揆を組織し、
     織田信長と交戦を続けました。天正八年(1580)三月に
     和議が成立し、顕如は紀州鷺ノ森へ退去しましたが、顕如     の子である教如はなおも本願寺にたてこもりました。「本願     寺顕如消息」は、そのような状況下で 顕如が信徒に向け     て書いた手紙です。和議の事情を説明し兵力を結集しよう
   とする教如の触書にまどわされないよう諭しています。
銀箔押烏帽子形兜 室町末期以降、実用性に加えていっそう
     装飾性をもつ「当世兜」「変り兜」と呼ばれる兜が現れまし
     た。烏帽子兜はその中でも数の多いものです。銀箔押烏
     帽子形兜はたいへん入念に造られており、形・構造ともに     もっとも標準的な作品です。寺伝では織田秀信が用いたと
     されていますが様式・技法からも安土桃山時代の傑作と考
えられます。                      

      伝織田塚改葬地
 織田塚はこのとき上加納で敗死した織田軍の将兵の屍を集めて弔ったものといわれ現岐阜市霞町にあった浄泉坊(円徳寺)がこの地(岐阜市神田町通り)に移転するに伴い、後に塚も円徳寺の境内に改葬された。

元の鮎鮨街道へ戻り金園町通りから130mほど南下すると元町二丁目で道が二股に分かれます。
ここを左へとります。

元町2丁目の
分岐点

岐阜市元町2丁目

北緯

35

24

47.7

東経

136

45

54.7

鮎鮨街道は加納宿へ入り、笠松街道を南下します。

鮎鮨街道は岐阜市元町二丁目の分岐点から左(東)方の道を辿ります。

元町2丁目の
分岐点

岐阜市元町2丁目

北緯

35

24

46.7

東経

136

45

54.8

次の区間は「元町二丁目分岐点」〜「中山道出合・秋葉神社」まで案内します。

「鮎鮨街道」案内図(4)

赤線鮎鮨街道です
元町二丁目分岐点」から「中山道出合い・秋葉神社」まで約1250mの案内図

元町二丁目の分岐点から約450m南進すると長住町1丁目交差点へ出ます。
交差点のすぐ東に溝旗神社があります

溝旗神社

岐阜市溝旗町4丁目

北緯

35

24

31.6

東経

136

46

01.2

溝旗神社御事歴
当社の創建は用明天皇二年といわれています。この年、この里に悪疫が流行し里人挙げて素戔鳴尊に祈願したところ
霊験あらたかにより悪疫が退散。里人は報賽のため社殿を創立し素戔鳴尊を奉祀したとあります。
明治42年に岐阜県へ神饌幣帛料を供進して境内1,198坪、準境内1,200余坪が認められました。
永代常夜灯奉納記
文化十四丁丑(ひのうし=1817)年六月
篠田一族が常夜灯2塔と常夜灯を灯す油料として「南組字田中」にある畑二畝四歩(約60坪=200u)を寄進する。
この畑で収穫できる菜種油は二斗三升六合(約42.5ℓ)あるのでこれで毎晩、灯してくれと灯篭に彫ってありました。

改築前は銅製?
寄進された灯篭は古くなって昭和51年に改築されました。
(以前の灯篭は確か銅製と記憶しています。
いずれにせよ灯篭を撮影しておけばと残念に思います)

溝旗神社のすぐ前が鮎鮨街道の名鉄各務原線横断踏切です

名鉄各務原線
踏切

岐阜市長住町1丁目

北緯

35

24

30.9

東経

136

46

00.4

 

この踏切付近は明治時代鉄道線路が走っていた場所です

踏切を越えて
2本目の右折路

岐阜市安良田(あらた)町1丁目

北緯

35

24

29.6

東経

136

46

01.0

踏み切りを渡り2本目の右折(西へ)の道が鮎鮨街道です
真っ直ぐの道は明治天皇の行幸に際して作られた安良田新道です
中山道、安良町道標へ出ます。

現在は住宅の中の鉄道跡から察すると踏切付近が加納停車場?

かっての鉄道の名残を探しましょう

明治の頃、鉄道が米原から東進して加納まで敷かれたのが明冶20年。
同年、名古屋まで開通すると、加納が岐阜の玄関口となりました。
そして、岐阜駅は大正2年、現在地に移転しました。

加納停車場跡

岐阜市幸ノ(こうの)町

北緯

35

24

30.6

東経

136

45

59.4

加納停車場跡と思われるマンションの付近
「鮎鮨街道」はマンション前(南)の道です。
50mほど西へ進んで左折(南へ)します。

     大正から昭和初期の岐阜駅
 明冶20年に鉄道が開業した加納駅(幸ノ町)から、大正2年(1913)には現在地(橋本町)に移転し駅舎も洋風で道には大八車が見られ自動車も無く人陰もまばらの岐阜駅前

加納駅から岐阜駅に移転して路線のルートも変更され、旧線路跡は今も名残が残っています。

昔の鉄道線路跡

岐阜市田生越(たしょうごえ)町

北緯

35

24

27.3

東経

136

46

03.8

現在も残る鉄道跡の道です (安良田(あらた)町1丁目と田生越(たしょうごえ)町の境の道)

元の鮎鮨街道へ戻り西へ約80m進み四叉路へ出ます。ここを南へ(左折)

幸ノ町(こうのまち)

岐阜市幸ノ町1丁目

北緯

35

24

28.2

東経

136

45

58.2

画面の道を左(南)へ曲がります

南へ真っ直ぐ約140m進みます

遠くの正面にJRの高架橋が見えます。

鮎鮨街道はJRの高架橋まで来たら西(右)へ曲がります

JR高架橋近く

岐阜市高砂(たかさご)町

北緯

35

24

21.4

東経

136

45

59.4

ここから「加納宿北番所跡」までの間は鉄道事業など
により鮎鮨街道の道筋ははっきりしません。
(案内図4にも点線で示してあります)

西へ90mほど進むと交叉路へ出ます。

この交差路を南(左)へ曲がります。

80mほど南へ進みJR高架下を通り交差路へ出ます

北広江交差路

岐阜市北広江町

北緯

35

24

19.6

東経

136

45

55.0

この交差路の左(東)10m程の北側に「加納宿北番所跡」があります。

加納宿北番所跡

岐阜市加納北広江町

北緯

35

24

19.6

東経

136

45

55.5

今は秋葉神社です(碑は青色軽トラの横)

H20現在標識は
壊されてありません

鮎鮨街道を南へ約80mほど進むと西側(右側)に「亀姫侍女十二相祠堂跡」があります

亀姫侍女
十二相祠堂跡

加納北広江町36
(山田昭二宅)

北緯

35

24

17.0

東経

136

45

55.2

亀姫様の侍女十二人の堂宇でした
山田昭二宅の北側に碑があります

個人宅の裏庭に
慶長12年8月12日,亀姫の侍女12人が咎にあったという.山田さん宅に12人の霊が祀られている。
昭和初期までは水商売の参拝客が絶えなかったという。

亀姫様の侍女12人が一度に
唯一の記録は加納藩田辺見聞録に残された
「慶長十二丁未年(1607)加納様(奥平信昌夫人 亀姫、徳川家康公嫡女也)の侍女、十二人一時に咎めに逢い、
元和四戌午年(1618)この地に設社」とあり、なぜ咎を受けたのか?咎とは処刑されたのか?など全く不明です。
戦前までは立派な堂宇も
山田家の文書によると大東亜戦争の空襲までは、この家の屋敷も大きく屋敷の真ん中に堂宇があり参道が道路まであり、
光国寺(近くの亀姫菩提寺)の寺守も居たそうです。光国寺の慶長19年の古図に「十二相」の堂宇が既に記されているそうです
咎の推測
慶長十二年といえば関ヶ原の合戦より7年目、江戸に幕府が開かれて4年目、加納城の築城も慶長六年におこなわれ、
大阪夏冬の決戦前七年、徳川幕府につくか、豊臣家の恩顧につくか、全国の大名、小名達が、肉親同士で対立、疑心暗鬼に
明け暮れした時代です。西の構えとしての加納城下も隠密あり、密使あり、徳川方と、豊臣方の虚々実々のスパイ合戦。
加納様(亀姫)の乱心か、西方の間者として闇から闇へと葬られたのか?十二相事件の現場が加納城中か、加納様の
下屋敷か、一度に12人の侍女が殺されたのか、何処の氏素性なのか、連座で12人が処刑されたのか・・・・・
事件の数年後に光国寺裏山(此の場所)に堂宇を建てられたのですから、単なる加納様の乱心ではなかったのでしょう。

街道に戻り更に南へ進むと道巾が狭くなります

 
 

250mほどで名鉄本線南広江踏切へ出ます。

名鉄本線南広江踏切

岐阜市加納南広江町

北緯

35

24

10.6

東経

136

45

56.2

 

踏切を渡ると30mほどで中仙道と出合います

中山道出合
秋葉神社

岐阜市南広江町

北緯

35

24

09.6

東経

136

45

56.2

画面の左が秋葉神社です

次の区間は「中山道出合・秋葉神社」〜「ぶたれ坊」まで案内します。

「鮎鮨街道」案内図(5)

赤線鮎鮨街道です
「中山道の出合」いから「ぶたれ坊」まで約800mの案内図

中山道出合を東へ曲がり30mほど進むと左側の民家の壁に「岐阜問屋跡」の説明版があります。

岐阜問屋跡

岐阜市加納新町

北緯

35

24

09.1

東経

136

45

57.4

茶色の壁に説明板があります

 

岐阜問屋
 当時はここ(加納新町)に熊田家があり、土岐・斉藤時代か
ら、この辺りの有力者でした。信長が岐阜にあった頃には
加納の問屋役をつとめていました。 江戸時代に入ると、
全国から岐阜へ出入りする商人や農民の荷物を引き受け
る荷物問屋に力を入れ、「岐阜問屋」と呼ばれるありました
 江戸時代、岐阜問屋は岐阜の名産品であり、尾張藩が将
軍家へ献上する「鮎鮨」の継ぎ立てをしており、御用提灯
の使用を認められていました。                

献上鮎鮨
 献上鮎鮨は岐阜町の御鮨所を出発し、岐阜問屋を経由し
御鮨街道を加納八幡町から名古屋へ向かう道を通り、笠松
問屋まで届けられ、更に江戸まで届けられました。     

そのため岐阜問屋には各種の特権が与えられていました

権力があった問屋場

 江戸時代、宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締とも言われましたが、今の問
 屋とは違い宿場に1軒だけ許された名誉ある家柄でした。(今須宿では荷役が多く七軒も許可されたそうです)

 業務は人馬の出入りや賃銭などの「帳付役」、人馬に荷物を分担させる「馬指」、などとそれをまとめる助役の「年寄」、
 などです。

「岐阜問屋跡」の説明板から150mほど東へ進むと右側に専福寺があります。

専福寺

岐阜市加納新町

北緯

35

24

06.3

東経

136

46

02.4

専福寺文書
専福寺には、戦国期を中心とした文書が多数残されています。 その内、織田信長朱印状、豊臣秀吉朱印状
池田輝政
制札状と伝えられている三通が岐阜市重要文化財に指定されています。
信長朱印状の内容
織田信長の朱印状は、元亀三年(1572)の石山合戦に際し、信長から、専福寺に出されたものとされています。
元亀元年九月、織田信長が石山本願寺を攻撃した際、本願寺法主顕如は教書を各地の門末に下し、末寺の蜂起を
促しました。美濃に於いても多くの寺院がそれに呼応していました。
同三年、専福寺の僧忍悟が、石山合戦で戦死し顕如より追悼の御書を給わったと伝えられる本寺に信長朱印状は、
その際、専福寺およびその門徒が石山本願寺へ加担することを禁ずる内容になっています。
その他、豊臣秀吉・池田輝政の発給とされる文書も伝えられますが、いずれも本寺と、当時の政治権力の関係を
考える上で重要であります。

専福寺から80mほど進むと広い道路を斜めに横断する交差点へ出ます。
その左に「中山道加納宿」の標識があり、その奥に「柳町秋葉三尺坊」があります。

中山道加納宿標識
柳町秋葉三尺坊

岐阜市加納加納柳町

北緯

35

24

04.6

東経

136

46

05.3

広い道路の手前左に「中山道加納宿」の標識があります
標識の奥の方に「柳町秋葉三尺坊」があります

道路を斜めに横断すると古い町屋の向いに「中山道加納宿」の石碑があります

「中山道加納宿」石碑

岐阜市加納柳町

北緯

35

24

04.2

東経

136

46

06.5

いずれ古い町屋は無くなる(改築)かも知れませんが石碑は残るでしょう

道路を横断してから60m程の右に善徳寺があります

善徳寺

岐阜市加納柳町

北緯

35

24

03.3

東経

136

46

07.3

善徳寺の手前に「中山道加納宿 加納柳町」の標識があります
 

善徳寺の前を左へ曲がり50mほど進むと広い道の手前に「中山道加納宿東番所跡」の碑があります

中山道加納宿
東番所跡

岐阜市加納安良町

北緯

35

24

04.4

東経

136

46

09.2

広い道路が明治以降に出来たため中山道の枡形にあった番所跡は狭い敷地に碑が建っています

東番所跡を東に曲がり50mほど進むと「主要地方道岐阜・稲沢線」を横断します

主要地方道
岐阜・稲沢線横断

岐阜市加納安良町

北緯

35

24

03.7

東経

136

46

11.3

中山道は真っ直ぐに進みます

主要地方道を横断して50mほど進むと左側に秋葉神社があります

加納安良町秋葉神社

岐阜市加納安良町

北緯

35

24

03.4

東経

136

46

13.2

江戸時代は宿の町単位に秋葉神社はありました。

秋版神社を過ぎて70mほど進むと「細畑一里塚」編で紹介した「加納安良町道標」へ出ます

谷汲・岐阜町分岐
道標

岐阜市加納安良(かのうあら)町

北緯

35

24

09.9

東経

136

46

15.6

左が谷汲・岐阜道  右が中山道

左 西京(東京に対して西の京)
右 岐阜(岐阜町)、谷汲    
明治十八年八月 上加納 後藤松助 六十一才

道路標識を南へ曲がり80mほど進むと加納大橋を渡ります

加納大橋

岐阜市渋谷町

北緯

35

24

00.0

東経

136

46

15.7

加納大橋

橋の南袂に石碑があります

加納大橋を渡り50mほど進むと「だんごや」角へ出ます

中山道だんごや角

岐阜市加納八幡町

北緯

35

23

58.1

東経

136

46

15.4

右角に「だんごや」があります。この道を左(東)へ。

江戸時代からあったわけでは無いでしょうが中山道にピッタシ!

東へ曲がり40m進むみ三叉路を南へ

中山道と分岐

岐阜市加納八幡町

北緯

35

23

57.8

東経

136

46

17.0

真っ直ぐ(東)は中山道。右(南)は鮎鮨街道

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