岐阜街道3

 

 

愛知県一宮市

尾張国

岐阜街道加納宿中山道から
木曽川「笠松湊」まで

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宝江渡船場跡

一宮市北方町木曽川

北緯

35

21

35.5

東経

136

45

47.8

堤上にはの小さな「高橋源左衛門旧居跡」の
説明板以外には何もありません

振り返ると、先ほど渡ってきた「木曽川橋」が見えます

「宝江渡し」
起源

慶長五年(1600年)八月、関ヶ原の合戦の前、岐阜城攻めの際東軍の先鋒池田輝政は一万八千の軍勢を率いて
この地に到着木曽川越えは遅々として進まず、北方の高橋源左衛門・広瀬嘉右衛門(当時は苗字は無かった)の機転に
より滞留無く渡河し、両名は、その功により御船渡守として、船頭給、二十八石五斗と苗字帯刀の恩賞を受けました。
「御成り道」確立時
次いで、同十二年、徳川義直尾張藩主のとき、岐阜街道を改修し、この地から対岸への渡船を官道とし、
代々の高橋・広瀬の両名が渡しを守りました。
明治以降
明治11年(1878年)10月25日、明治天皇御巡幸の際、両名は私費をなげうって船橋を架しましたが、翌年流失し、
鉄橋架設に至るまで渡船を継続しました

「高橋源左衛門旧居跡」
北方宝江の人高橋源左衛門は、広瀬嘉右衛門と共に、慶長五年(1600年)8月関ヶ原の合戦前、池田輝政率いる
1万八千の軍勢の木曽川越えを助け、さらに加納への近道も案内し、岐阜城攻めに比類なき軍功を上げました。
その功績により、黄金10両、刀一振り、船頭給28石5斗が与えられました。
以後、苗字帯刀を許され宝江の御渡船守として明治初期まで続きました。
旧居跡は現在、宝江ゲートボール場となっています。

少し名古屋方面へ入ってみましょう

堤上道から東南へ進みます

約100mほど進むと変則四差路へ出ます

なごや・津しま起追分

一宮市北方町木曽川

北緯

35

21

25.2

東経

136

46

03.3

変則四差路 四差路の片隅に古い道標があります
左:なごや道 右:津しま・起(おこし)道 文政十二年己丑(つちのとうし)四月(1829年と比較的新しい)

交差点の反対側に「宝江渡跡」の碑
慶長五年(1600年)八月、関ヶ原の合戦の前、岐阜城攻めの際
東軍の先鋒池田輝政は一万八千の軍勢を率いてこの地に到着
木曽川越えは遅々として進まず、北方の高橋源左衛門・広瀬嘉
右衛門(当時は苗字は無かった)の機転により滞留無く渡河し、
両名は、その功により御船渡守として、船頭給、二十八石五斗
と苗字帯刀の恩賞を受けました。
次いで、同十二年、徳川義直尾張藩主のとき、岐阜街道を改修
し、この地から対岸への渡船を官道とし、代々の高橋・広瀬の
両名が渡しを守りました。
明治11年(1878年)10月25日、明治天皇御巡幸の際、両名は
私費をなげうって船橋を架しましたが、翌年流失し、鉄橋架設に
至るまで渡船を継続しました。

尾張藩から見た「岐阜街道」(鮎鮨街道)
岐阜街道は、中島郡井之口村四ツ家で美濃路から分かれ一宮
・黒田を経て宝江の渡しより笠松・中山道加納宿から岐阜に
至る道である。関ヶ原の合戦後、美濃の一部が尾張藩領となり
岐阜の町も支配下に入るに及び藩政上重要な街道となる。

更に約400mほど堤上から街道を下ると信号のある交差点へ出ます。

南無妙法蓮華経碑

一宮市北方中島町

北緯

35

21

13.9

東経

136

46

16.1

昔から街道の安全を祈り建てられたものでしょう。

安政三丙辰(ひのえたつ)年(1856年)

 

 

 

 

 

岐阜街道加納宿中山道から
木曽川「笠松湊」まで

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