「鮎鮨街道」は岐阜町を出ると、加納城下へ入り、一路笠松湊を目指します。
| 六十九次 |  | 岐阜県羽島郡笠松町 美濃国 名鉄名古屋本線笠松駅下車 | 
加納宿中山道から「岐阜街道」へ曲がると直ぐに「ぶたれ坊」があります
| ぶたれ坊道標 岐阜市加納八幡町 | 
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 基壇脇の道標には (詳しくは前の頁で紹介してあります) |  | 
| ぶたれ坊と茶所 | 
次の区間は「ぶたれ坊」〜「鮎鮨街道追分地蔵堂」まで案内します。
| 「鮎鮨街道」案内図(6) | 
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| 赤線が鮎鮨街道です 「ぶたれ坊」から「鮎鮨街道追分地蔵堂」まで約960mの案内図 「鮎鮨街道追分地蔵堂」から「中山道追分地蔵堂」まで約1450mの案内図 | 
「ぶたれ坊」から南へ工場地帯を進みますが「鮎鮨街道下川手往還追分」まで説明するものはありません
「ぶたれ坊」から580mほど進むと県道1号線(芋島・六条線)横断交差点へ出ます
| 左側に名鉄名古屋本線の踏切があります | 
更に南へ380mほど進むと「下川手往還」との追分へ来ます。
| 下川手往還追分 岐阜市村里町 | 
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ここは2頁前に中山道領下(りょうげ)で鮎鮨街道との追分地蔵からの近道の合流点です
| 左は「ぶたれ坊」から来た鮎鮨街道。 右は「下川手往還」からの道 | 
次の区間は「鮎鮨街道追分地蔵堂」〜「県道14号線合流点」まで案内します。
| 「鮎鮨街道」案内図(7) | 
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| 赤線が鮎鮨街道です 「鮎鮨街道追分地蔵堂」から「県道14号線合流点」 まで約1180mの案内図 | 
追分地蔵堂から鮎鮨街道を南へ50mほど進むと右側に順勝寺があります。
| 順勝寺 岐阜市村里町 | 
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| 未調査 | 
順勝寺を過ぎて150mほどで広い空き地に出ます。ここにはかって大きな舟問屋がりました。
| 舟問屋跡 岐阜市下川手 | 
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街道沿いに流れる「境川」を利用した川運送業の豪勢な倉付きの家が目立ちました。
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| 以前の風景 | 
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| 裏に流れる現在の境川 | 
|  | 家の裏(左)  階段で舟付き場まで |  | 
| 大きな家が無くなり、今では広い空き地になっています。 | 
| 向かいには、まだ大きな屋敷があります | 
舟問屋跡を過ぎ140mほどで「馬頭観世音菩薩堂」が左(東)にあります。
| 馬頭観世音菩薩堂 岐阜市東川手2丁目 | 
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| かっては樹木が茂りひなびた感じが残っていましたが、今は建てかえられたようです。 | |
| 馬頭観世音菩薩石碑は昔のままでした。 | |
鮎鮨街道から西に外れ210mほどの所に正福寺があります。
| 制札を2枚も持つ正福寺 岐阜市東川手1丁目 | 
| 岐阜市指定重要文化財「禁制制札」 正福寺には、二枚の制札が伝わっています。 一枚は、天正十年(1582年)十一月付けで、江戸時代の著書「諸国高札」にも掲載されており、織田信孝が下付したものです。 制札自体には書名がなく御判とあることから、元来文書で下されたものを寺院側で書いて制札としたものと考えられます。 信孝は、天正十年六月の清洲会議に於いて、美濃を領土とされたことから、 それにともなう支配体制確立の一環として、出されたものと考えられます。 | |
| 他の一枚は、天正十年十二月付けであり、これは、文字の判読が出来ないほど磨耗していますが、 先の制札を出した信孝は、天正十年十月、柴田勝家と結び、豊臣秀吉と対立するが、翌年降伏し自害しました。 | |
|  | 余計な心配 この近辺は現在も堀を巡らした大きな家が有ります。  掃除や屋敷内の草引きはどうしてるか?税金は幾らくらいか? | 
馬頭観音から南に170mほど進むとは右側(西側)に愛宕神社がります。
| 愛宕神社 岐阜市東川手1丁目 | 
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愛宕神社から街道を南へ180mほど進むと鮎鮨街道は「国道21号線」に分断されています。
| 鮎鮨街道分断 岐阜市東川手2・4丁目 | 
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| 「鮎鮨街道」は左へ迂回して国道21号線の下を通ります。 | |
国道21号線を横断すると笠松街道は一路南へ笠松を目指して延びています。

この辺りの街道は境川の堤防も兼ねてか一段と高いところを通っています。
鮎鮨街道分断点から480mほど進むと県道14号線と合流します
| 県道14号線合流点 岐阜市東川手2・4丁目 | 
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| 最近また道路工事が行われ様子が違ってきました。 | 
次の区間は「県道14号線合流点」〜「宝江渡し跡」まで案内します。
| 「鮎鮨街道」案内図(8) | 
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| 赤線が鮎鮨街道です 「県道14号線合流点」から「宝江渡し跡」 まで約2000mの案内図 | 
合流点から250mほど進んだところ辺りから鮎鮨街道は左へ(東)反れ笠松町へ入りましたが
  境川がたびたび氾濫しいまは河川改修で街道はなくなっており、更に150mほど進み境川を渡ります。
| 「鮎鮨街道」案内図(8の1) | 
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| 案内図(8)が見にくいので拡大図で説明します | 
| 県道14号線分離点 岐阜市西川手10丁目 | 
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| 橋を渡って 最初の三叉路を左(東)へ曲がります。 | 
県道14号線分離点から75mほどで道に突き当たります。
ここを右(南)へ曲がり120mほどで川跡を横断します
  ここが岐阜市と笠松町の境です
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| 岐阜街道 | 
| 岐阜市と笠松町境 笠松町松栄町 | 
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| 笠松町へ入ります | 
| 市町境は右(西)に小さな社が目印です。 | |
行政境から240mほど進むと羽島用水に架かる「三つ目橋」を渡ります
| 三つ目橋 笠松町松栄町 | 
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| 「鮎鮨街道」案内図(8の2) | 
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| 案内図(8)が見にくいので拡大図で説明します | 
三つ目橋から更に240mほど進むと右(西)に「春日神社」があります
| 春日神社 笠松町春日町 | 
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| 道の右(西)にありますが建物の隙間のようなところにあるので見落としそうです。 | |
春日神社から110mほどで名鉄竹鼻線の踏切です。
| 名鉄竹鼻線踏切 笠松町上新町 | 
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| 踏切を渡ると古い町屋が並んでいます | 
踏切をを渡ると45mほどの右(西)に「真教寺」があります
| 真教寺 笠松町上新町 | 
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| 寺標には「高野山 高野派 六師教会笠松支部」とあります。 | |
「真教寺」から120m程の左(東)に「大銀杏がある秋葉神社」があります
| 大銀杏と秋葉神社 笠松町上新町 | 
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| 消火栓 火の幸を恵み、悪火を鎮め、火を司り給う神様である秋葉神社に消火栓があるのも因縁でしょうか。 | |
秋葉神社から約270m進むと鮎鮨中継地の笠松問屋場跡があります。
| 鮎鮨の中継地 笠松町下新町73 | 
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| 笠松問屋跡 長良川鵜飼の鮎鮨を慶長八年(1603年)に将軍徳川家康、秀忠に「鮎鮨」を献上以来、毎年六月から九月に掛けて、毎月6回江戸城へ届けられました。 岐阜町の「お鮨所」から”加納問屋”を経て”笠松問屋”に受け継がれ、木曽川を渡って”一宮問屋”へ、そして名古屋へ送られました。 時期的に腐りやすい「鮎鮨」を送る労苦は大変だったようで、主に農家の人が1回にに14人がかりで運んだそうです。 旧笠松街道沿いに道中の安全を祈願した神社とともに、記念碑が建てられています。 | 
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| 笠松問屋跡 現在は「みそ・たまり(醤油のこと)わた久」(高島久右エ門=笠松湊の道標建立者) | |
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| 鮎鮨談議 | 
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| 鮎ずしが徳川幕府に献上 された際に着用された上着 (河崎太郎さん蔵) | 有栖川宮家に献上ずしを 運んだ櫃 (川出孝治さん蔵) | 有栖川宮家に献上したすしについて書かれている記録 (川出孝治さん蔵) | 
| 平安時代に作られていた美濃の鮎ずし | 
| 寿司の起源は「なれずし」?   現在分かっている文献のなかで日本で最初に「すし」について書かれているのは、  延喜式とは法令の施行細目が書かれているもので、各地からの貢納品が記されているのですが、  鎌倉から室町の時代になると、美濃の「鮎ずし」についての記述も数多く見られるようになります。  その後の幕府政所代であった蜷川親元(にながわちかもと)の記した『親元記』なる書物には、  そのほかにも、『山科家礼記』や『実隆(さねたか)日記』、『お湯殿の上の日記』などに、 | 
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| ◎献上鮎ずしを作る様子を伝える『長良川鮎鮨図巻』(岐阜市歴史博物館蔵) | 
| 徳川幕府に献上された鮎ずし | 
| このように、名を馳せた美濃の「鮎ずし」は、江戸時代になると徳川将軍家への献上品として  江戸幕府に「すし」を献上していたのは10数藩はありましたが、献上回数も量もわずかなものでした。 そもそも鮎ずしが将軍家へどうして献上されるようになったのか、2つのエピソードが残されています。 | 
| エピソード1 | 
| ひとつは、元和元年(1615年)のこと、家康・秀忠の親子が大坂夏の陣から江戸へ帰る途中、 岐阜の鵜飼見物に立ち寄った際、当時、美濃郡代であった岡田将監(しょうげん)のもと、 河崎喜右衛門によって「鮎ずし」を献じられたという説。 | 
| エピソード2 | 
| もうひとつは、慶長3年(1603)、郡代・大久保長安に命じらた河崎喜右衛門が献上したというものです。 | 
| moriy@シルバーの説 | 
| 将軍に献上される「鮎鮨」の由来と”源頼朝”  江戸時代岐阜町から毎年6月から9月まで月に6回も「鮎鮨」を将軍家に献上した由来は! 「平治の乱」が縁 後に頼朝が将軍になったのを縁に昔もてなした「鮎鮨」を献上し、以来将軍に献上するのが習いとなったようです。 
      「織田信長」と鵜匠 「尾張家」の将軍への献上「鮎鮨」 以上が「moriy@silver」が気に入った「将軍に鮎鮨献上」の逸話です。 | 
| 鮎鮨の作り方   献上品というだけあって鮎ずしづくりは厳しい定めのもと行われていました。  鮎は2日2晩または3日3晩にわたって塩漬けし、そのあと水で洗って塩出しして腹にご飯を詰めます。  鮎ずしづくりは、代官所の立ち会いのもと、身を清めたものだけが行っていました。  このとき岐阜町から笠松湊へと運ぶときに使われた道は、「御鮨街道」と呼ばれるようになりました。  江戸時代、すべての将軍に供された鮎ずしの献上も、徳川幕府の崩壊とともに廃止されることとなりました。  明治初年の記録によると、そのなかに「ちまきずし」という名前が出てきます。 | 
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| ◎岐阜から江戸までの輸送時刻の確認書『御用鮎鮨宿次申付状』(河崎太郎さん蔵) | 
笠松問屋跡をから約40mほどで右(西)へ曲がる道があります。
その奥に善光寺があります
| 浄土宗西山禅林寺派 笠松町下新町42 | 
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| 善光寺があるこの場所は、以前、笠松陣屋の牢屋があり、罪人の処刑場で、 | |
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| 笠松のお寺は道路から奥まったところに多くあります。 その両側は立派な商家が連なっています。 | |
| 「鮎鮨街道」案内図(8の3) | 
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| 案内図(8)が見にくいので拡大図で説明します | 
もとの鮎鮨街道へもどり南へ約75mほど進むと突き当たり(枡形ー1)に出ます
| 枡形ー1 笠松町新町 | 
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| この三叉路を左(東)へ曲がります | 
東へ約110mほど進むと四差路へでます。
| 枡形ー2 笠松町上本町 | 
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| 鮎鮨街道はここを右(南)へ曲がります。 | 
鮎鮨街道へ行かず左へ曲がり約60m進むと左側(西側)に「連国寺」があります。
| 連国寺 笠松町八幡町 | 
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| 芭蕉の「野さらし紀行」 | |
更に北へ約70mほど進むと八幡神社へ出ます
| 八幡神社 笠松町八幡町 | 
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| 大きな境内を持つ八幡様 | 
| 笠松商家  笠松にはいると、至る所に昔の風の 
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八幡神社前の変形四差路を東へ曲がり約50mほど進むと右(南)に
「廃藩置県」で岐阜県に最初に県庁(笠松県)が置かれたが代官所跡があります。
| 笠松県庁跡 笠松町県町 | 
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| 岐阜県は「笠松県」でした! |  | 
| 笠松陣屋・県庁の跡 陣屋は笠松県庁になるまでの二百年間、美濃国内の幕府領の支配と治水を行なう役所として 慶応四年(1858)一月、笠松陣屋は朝廷の命を受けた竹澤寛三郎が「天朝御用所」と改め、 更に同月「笠松県」の県庁となり、県知事には「長谷部如連」が任命されました。 | |
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| 大政奉還と王政復古と竹沢寛三郎 慶応三年(1867)十月十四日、徳川十五代将軍慶喜(よしのぶ)は大政を奉還し、二十四日に将軍職を辞した。 同年十二月九日には、朝廷より王政復古の大号令が発せられ、政治の大権は幕府から天皇に移った。政治の大権を握った新政府は、財政基盤の確立を図るため、これまで幕府の財政を支えてきた幕府領を収公して朝廷の御料とすることとし、翌1868年1月4日の廟議でこれを決定した。以後、この収公は新政府の最重要事業となるが、一国がすべて幕府の直轄領であった飛騨国や、総高の44%が幕府直轄領であった美濃国は、重要な土地であり、その接収に当たったのが竹沢寛三郎である。 竹沢は、1829(文政十二)年に阿波国に生まれ若い頃から勤王の志を持ち、諸国を巡り歩いた。 美濃・飛騨接収を建白 幕府討伐が決定されると、機先を制して美濃笠松と飛騨高山の郡代所を第一に接収することの必要性を建白した。これを受け入れられて、東山道筋の平定に当たる東山道鎮撫総督軍の洗髪を命ぜられた。岩倉具視に会い各種条件を要求したが叶わず、自費で門人を引き連れ出発した。 あっけない美濃笠松郡代所の接収 1868(明治元)年1月雪深い飛騨を避け笠松から接収を始めた。18日に笠松の役人を宿に呼び説得に当たった。笠松郡代は前年に就任したばかりでまだ着任しておらず、手付けらはすぐさま支配地の返上を申し出て、陣屋を退去てしまった。竹沢は21日に陣屋に入り、笠松村が朝廷の御料となった旨の高札を建て、当年の年貢半減などの措置を執ることを伝えた。 飛騨高山接収に 飛騨へは、23日に書状を出して発向する旨を伝えた。飛騨は混乱に陥り、郡代が御用伺いのためとして江戸へ引き上げてしまった。竹沢は、25日に笠松を発ち、郡上藩と尾張藩が援兵を派遣した。途中、飛騨郡代所の地役人や郡中総代たちが面会に訪れ、勤王に尽くす旨の誓詞を差し出した。2月4日、高山陣屋に入った竹沢は、7日に郡中総代を呼んで当年の年貢を半減することなどを告げ、陣屋の前に天朝御用所の高札を建て接収は完了した。 無血接収するも捕縛される しかし、飛騨の取締は水戸の浪士梅村速水となり3月に総督府によって竹沢は捕縛された。理由は接収中に支持に背いたというのがことであるが、半年間の幽閉の後許され姓を新田と改め活躍した。 (岐阜新聞「濃飛歴史人物伝」より) | |
八幡神社の東脇の道を北へ約130m進み、八幡神社縁石の終わるところから堤防へ上がると「奈良津堤の桜」があります
| 奈良津堤の桜 笠松町八幡町 | 
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| 笠松湊からの街道にもなっていた堤には「奈良津堤の桜」並木があります | |
この桜のトンネルを北へ約100mほど進むと魂生大明神があります。
| 魂生大明神 笠松町八幡町 | 
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| 御神体は? 花柳界にご利益が高いとの噂が広まる | |
その魂生大明神の鳥居の手前に「へそ塚」があります。
| へそ塚 羽島郡笠松町八幡町 |  | 
| へそ塚は、生命の源、愛情の源として日本全国から「へその緒」を預かり、心身の健康を祈ろうとするものです | |
八幡神社へ曲がった四差路へ戻り南へ約120mほど進むと愛宕神社と「常行山法伝寺」があります
| 常行山法伝寺 笠松町上本町 | 
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「常行山法伝寺」の石碑の前の道を東へ進むと堤防下に「福證寺」があります
| 福證寺 笠松町司町 | 
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| 聖徳太子の作られた本尊があると言われるお寺です。 | 堤防近くになります | 
ふたたび鮎鮨街道へ戻り南へ約80mほど進むと右側に笠松歴史民族史料館があります
| 笠松歴史民族資料館 笠松町下本町 | 
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| 笠松町本町通りにあります | 
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| 陣屋の模型 | |
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| 千石舟 昭和30年頃まで使われていた。 | 天領を知らせる札 | 
| 笠松隕石 笠松町新町7丁目 蓑浦久之氏 | 
|  | 笠松隕石 昭和13年3月31日(1938年)午後3時頃笠松町新町7丁目蓑浦久之氏方の屋根を突き抜けて握り拳くらいの隕石が落下してきました。 | 
民族資料館から南へ約20mほ四差路を西(右)へ曲がり約140mほど進むと盛泉寺があります
| 盛泉寺 笠松町西町 | 
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| 境内には天然記念物の大銀杏の木が有名です。 | |
鮎鮨街道へ戻り約60mほどすすむと有形文化財「杉山邸」があります
| 有形文化財「杉山邸」 笠松町下本町 | 
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| 笠松の八人衆の十五代目「杉山銓二郎邸」 | |
「杉山銓二郎邸」から約30mほど進むと変則四差路にある「木戸跡」へ出ます。
| 木戸跡 笠松町柳原町 | 
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|  | 「木戸跡」 笠松宿の出口に「木戸」があり通行人を調べていました。 左は「名古屋街道」へ行く笠松湊。 右は「伊勢路」、木曽川に沿って南下、そして桑名へ出る。 伊勢、京都への近道でもありました。 | 
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| 笠松の本町通りを南へ進むと突き当たりにあります。 | |
木戸跡を左に堤上にあがると視界が広がって、木曽川河畔に出ます。
笠松湊跡に出ました。
| 笠松湊跡 笠松町港町 | 
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|              笠松港発展の歴史 | 
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 | 笠松湊渡船場跡(笠松丁港町) 笠松は木曽川沿岸最大の川港として、鉄道や自動車が登場するまでは、交通運輸の重要な拠点でありました。 江戸時代笠松と桑名を結ぶ10里の水運は産業発展のために大いに役立ちました。 その後明治になっても水運は衰えることなく明治18年には約13,800艘もの船が笠松港に機能した記録が残っています。 その面影を残す笠松港公園に、江戸情緒を伝える川灯台が建てられ、面影を残しています。 また、湊までの道は荷揚げ用の大八車が地面に食い込まないよう敷き詰められた「石畳」が今でも残っています。 | 
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| 以前の石畳は数十mのみであとはタール舗装でした | 最近改修工事中にもっと下の方までの石畳が発見されされました | 
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| 御成り街道 | 川灯台 | 
| 上の現地の看板を分かりやすく説明すると | 
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|          笠松湊の有利な地勢(笠松町沿革誌) | |
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|  いせ、なごや京道の道標 |  いせ、なごや京道  昭和の始め、坂道を広める時、役場の庭へ移しました。 
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笠松湊跡から少し離れた地蔵堂が昔を語っていました。(最近訪れた時見当たりませんでした?)
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|           笠松と松尾芭蕉の「野ざらし紀行」 | |
| 対岸の尾張藩(一宮市北方町宝江)宝江渡船場跡 | 
尾張藩熱田までの名古屋街道(鮎鮨街道)は別の項で紹介しますが
とりあえず、対岸の「宝江渡船場跡」まで行って見ましょう。
| 「鮎鮨街道」案内図(9) | 
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| 「笠松湊」から「愛知県一宮市北方中島」までの約1600mを案内します | 
「笠松湊」から下流へ約200mほど進むと木曽川橋に歩行者専用橋が架かっています
| 木曽川橋口 笠松町田代町 | 
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| 笠松湊のすぐ下流にある「木曽川橋」の歩行者用橋を渡ります | 
木曽川橋は約500mです
| 木曽川橋の途中から見た笠松湊跡です。石畳の道が川へ下っています。 | 
| 同じく対岸の「宝江渡船場跡」を見ますが渡船場跡らしきものは見えません | 
木曽川橋を渡り切り、左へ曲がり約150mほど進むと「高橋源左衛門旧居跡」の説明板があります。
これが唯一の「宝江渡船場跡」らしいだけで、何の名残もありません。