美濃・尾張街道集「御陣屋道」

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御陣屋道
御成道と同じく、黒田の旧字子新田で岐阜街道と分かれ、真直ぐに奥村用水を渡り、
曽根の郷中に入って約100m行った所で左に曲がり、また、右に曲がる「鉤の手」に造られており、
当時の戦略的な意図がうかがえる。 
その後、青塚神社横を通り、妙性坊の前から代官所(ご陣屋)のある堤防までが御陣屋道である。
(「一宮市の歴史街道観光ガイドマップ」より)

「御陣屋道」は中央辺りの褐色色の道です。

出発点は上図の「の美濃路から御陣屋(御成道)分岐」です。

御陣屋-00 岐阜街道、
         JR木曽川駅北踏切

愛知県一宮市木曽川町黒田往還南   海抜  12m

北緯

35

20

50.

東経

136

47

03.

岐阜街道を見分易い場所は「JR東海道本線木曽川駅」北の踏切を横断している道が「岐阜街道」です.。

御陣屋道は「岐阜街道」のJR東海道本線の「木曽川駅」東の交差点から説明します。
(ここから北へ約1km程に「北方御陣屋跡」があります。)

この道JR東海本線「木曽川駅」北の踏切を横断する道が「岐阜街道」です

木曽川駅の踏切から東へ進むと信号交差点が見えてきます。
(交差点の信号には地名が付いてません)

岐阜街道の木曽川駅の踏切を東へ200m程進むと信号交差点へ出ます。
この信号交差点が「北方御陣屋跡」(御陣屋道)「御成道」出発点です。 

 

御陣屋-01-御陣屋道(御成道)出発点 
    御陣屋道(と御成道)岐阜街道から
分岐して始まります。

一宮市北方町北方西本郷   海抜 17m

北緯

35

20

50.

東経

136

47

09.

「御陣屋道」「お成り道」の出発点はこの交差点です
一つ目の信号を北折した道が「御陣屋道」「お成り道」
目印も信号名もありません!

交差点を170m程北進すると「御陣屋道」「お成り道」が分かれます。

御陣屋-01-2 御陣屋道  
       (と御成道)の分岐します

愛知県一宮市木曽川町黒田往還東   海抜  15m

北緯

35

20

55.

東経

136

47

07.

170m北進すると複雑な交差点へ出ます。
この2本の道(真ん中に緑地がある)が交差する道のどちらかを右折(東折)します。

途中「お成り道」は右折(東折れ)しますが、「御陣屋道」そのまま北進します。

岐阜街道から分岐した「御陣屋道」を北へ700m程進んだ田の中に「江戸時代の道標」がひっそりとあります。

御陣屋-02 江戸時代道標

愛知県一宮市北方町北方北曽根   海抜 14m

北緯

35

21

10.

東経

136

47

04.

01御陣屋道分岐」交差点から600m程の左側の電柱と用水脇にわずかに頭を出しています。

「河村木材工芸」の建物が目印になります。
左側の1本目の電柱手前にあります。

道標は背が低く道路からわずかに頭だけを出しています。
(これは交差点「東」から見た画像です

近くに寄るとかろうじて石の碑と木標があります。
道路拡幅や水路改修で邪魔者扱いにされ、やっと残っています。

「左 一ノ宮道」「右 御陣屋道」の文字がかすかに読めます。

「御陣屋道」は広い道から東折します。

ここから東折した道が「御陣屋道」です。

東折したあと80mほど進み北折(左折)します。

御陣屋道は国道22号工事で消滅
「御陣屋道」
の正面に国道22号が東側に迫ってきて「御陣屋道」は狭くなります。
歩行者は通行可の様ですが車の方は西折(左折)し、先ほどの街道に戻ります。
この先「御陣屋道」「国道22号」工事に伴い道路改修などにより
国道22号」の木曽川堤防手前まで消滅しています。

このため西側の街道に戻ります。
「御陣屋道」の消滅点から西折し100m程進むと正面に「青塚神社」があります。

御陣屋-03 青塚神社

一宮市北方町北方西本郷   海抜 11m

北緯

35

21

21.

東経

136

47

05.

由緒がありそうな神社ですが由来は分かりません。

広い街道へ出て北折し「青塚神社」の隣の「北方中学校」横を過ぎて学校の角まで来ると
「県道148号」
へ出ます。
この交差点を左折(西折)し「県道148号」400m程西進します。

「北方代官所跡」(御陣屋跡)へは現代の道を進みます。

「県道148号」400m程西進し「JR東海道本線」ガード下をくぐると、
交差点に「北方代官所跡0.6km」の標識があります。

この標識のある交差点を北折(右折)すると正面に木曽川堤防が見えてきます。

木曽川堤防まで500mほど進むと
「史跡 北方代官所跡」が見えてきます。

標識を右折(東折)すると「JR東海道本線」の下に
「北方代官所跡」が見えてきます。

広大な代官所跡のほとんどは民地となり住宅地となっております。

御陣屋-04 北方代官所

一宮市北方町北方西本郷   海抜 9m

北緯

35

21

49.

東経

136

46

54.

広大な代官所跡の今は石柱と松の木1本、説明板と囲いだけです。
あとは分譲住宅が」ずらりと並んでいてはるか彼方に屋敷内にあった屋敷神社が見えます。

かって屋敷内にあった「金毘羅神社」ははるか彼方に見えます。

広大な代官所あとは現在はほとんどが民地になり民家が立ち並んでおり、
代官所跡碑は隅っこに囲い垣だけが建っているので探すに苦労します。

北方代官所跡
天明元年(1781)郡奉行を廃止し、すべて代官とし、百〜百五十石の武士が任命された。
代官所は御陣屋と呼ばれ、北方代官は、尾張・美濃の百七十一か村、
総高八万七千百九十三石余りの広大な地域を支配した。
名を残した代官に畑繋神社の祭礼の祭神となった酒井七左衛門や牛刀舎を設立した深沢新平がいる。
また別に川並奉行所があり、川並奉行は代官が兼務し、
主に木曽川から切り出し筏で届く木材の管理をした。
そして、川並奉行所に属す御番所を置き常に船の積み荷を検視し、夜は船舶の通行を禁止した。
この番所に「木曽川徒渡りの者、切り捨てにす事」の額を掲げていた。
「一宮北ライオンズクラブ 平成7年1月」

木札の説明板には
「天明元年(1781)この地に置かれた北方代官所(陣屋)は、木曽川沿いの葉栗、丹羽、中島の三郡、
美濃の大野、池田、本巣ほか九郡に及ぶ広い地域を管轄していた。
明治四年(1871)代官所は廃止される。
ここ北方の地は木曽川の運材を管理するに好適で、万治二年(1659)以来、
川並奉行が設けられていた。
(一宮市観光協会)

上図にある神明社や金刀比羅社の間に在った官舎は現在は民家が立ち並んでいる。

次は「御成り道」を案内します。

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