美濃・尾張街道集「御成道」
御成道
慶長五年(1600)九月の関ケ原合戦の際、徳川家康が通った往時を偲び「岐阜お成り」と称して
岐阜を訪れることは、歴代の尾張藩主の重要な行事となっていた。
このお成り行列が通った岐阜街道分岐から(紫色街道)岐阜城下町「笹土居」の「善行寺」までを「お成り道」と呼んでいる。
(「一宮市の歴史街道観光ガイドマップ」より)
「御成道」は上図の紫色の街道です |
「御成道」の由来と経由した地名を「関ケ原合戦と美濃・飛騨(岐阜県歴史資料保存協会)」から
抜粋してほぼ正確に辿ってみたいと思います。
家康
美濃への進出 家康は岐阜落城を聞いて九月一日江戸を出発。 十日熱田、十一日、十二日清洲逗留、十三日清洲を出発、尾州葉栗郡北方村より木曽川を船で渡り、 尾州葉栗郡円城寺に着岸、当寺筏支配の有力者 野々垣源兵衛(江戸時代尾張藩川並奉行)の案内で 野々垣邸に小休、敵に備えて間道を利用 中野・伏屋・三宅・上印食(かみいんじき)・両天橋・を 経て細畑(ほそばた)に至り、加納八幡町・安良町(あらまち)・柳町・新町にて北折、広江経由 にて笹土居(ささどい)の善行寺入ったという。 (この家康の岐阜進入路を、後の尾張藩主は、代替りの都度この道を通って岐阜へ来訪したので「御 成り道という。) この時 三成の兵が家康をねらっていて危険であるので円清(善行寺住職)は直ちに善行寺へ入ったと 見せかけて、裏山へ家康を一時隠し、難を脱せしめたという。 この裏山は家康に因んで権現山、駿河山と後世 称せられ現在に至っている。 「関ケ原合戦と美濃・飛騨(岐阜県歴史資料保存協会)」 |
出発点は「岐阜街道」の一宮市木曽川町往還から出発します。
岐阜街道は下図の下部の「JR東海道本線木曽川駅」北の踏切を横断している道が「岐阜街道」です.。
御成道は「岐阜街道」のJR東海道本線の「木曽川駅」東の交差点から説明します。 |
御成道-00
岐阜街道、 愛知県一宮市木曽川町黒田往還南 海抜 12m |
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岐阜街道を見分易い場所は「JR東海道本線木曽川駅」北の踏切を横断している道が
「岐阜街道」です
この道が「岐阜街道」です |
岐阜街道の「東海道本線木曽川駅踏切」を東へ進むと信号交差点が見えてきます。 |
この信号交差点が「御成道」と「北方御陣屋跡」(御陣屋道)の出発点です
御成道-01-1「御成道」 一宮市北方町北方西本郷 海抜 17m |
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信号を左折(北折)すると「お成り道」と「御陣屋道」となります。 |
170m程北進すると「お成り道」と「御陣屋道」の分岐する交差点へ出ます。
御成道-01-2
御成道と 愛知県一宮市木曽川町黒田往還東 海抜 15m |
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「御成道」は真ん中に緑地帯を挟んで両側に道のある、不思議な交差点を右折(東折)します。
途中「お成り道」は右折(東折れ、正面のワンルームマンション前を通る)します。 |
右折(東折)すると真ん中に本河を埋めた緑地があり、両側に道があります。
御成-02
旧河川上の道 一宮市北方町曽根村東 海抜 13m |
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両側に道がある道を東へ400m進むと公園の様なゾーンが見えてきます。
この「一時停止」の標識が道をある左折(西折)します。 |
「御成道」 |
御成-03
国道22号(名岐バイパス)横断 一宮市北方町北方狐塚郷 海抜 23m |
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「御成道」が国道22号を横断する「狐塚信号交差点」。 |
国道22号を横断後更に北進します。
「御成道」は「北方狐塚」信号交差点から更に旧道を進みます。 |
「北方狐塚」信号を過ぎ600m程進むと「宝行寺」が見えてきます。
御成-02 宝行寺 一宮市北方町北方西本陣 海抜 14m |
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「お成り街道」 |
宝行寺の前が御成道です。 |
「北方の渡し跡」碑は本堤防の上に建っています。 |
御成り道を更に北へ500m程進むと木曽川河畔に出ると堤防上に「北方渡跡」碑が立っています。
御成-03 北方の渡し場跡 一宮市北方町北方東本郷 海抜 23m |
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北方の渡し跡 |
ここ「尾張藩」から対岸は「美濃藩」となります。
尾張藩(愛知県) ⇒ 美濃藩(岐阜県) |
北方の渡しを渡ると対岸の「円城寺渡船場」に着きます。
しかし、現代は下流側にある国道22号から対岸の岐阜県へ渡り「円城寺」付近の堤防下にある
「西明寺」か「神明神社」あたりが円城寺渡船場跡です。
「御成道」は対岸の「北方の渡船跡」から国道22号経由で |
御成-04 円城寺渡船場跡 岐阜県羽島郡円城寺 海抜 m |
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円城寺渡船場跡は現在は標識も目印もありません
目印としては第2次世界大戦時の「冨士神社」脇にある「忠魂碑」か |
渡船場から堤防上の道を東へ進み冨士神社辺りから堤防下へくだり北へ向かいます・ |
この付近に江戸時代の道標があるはずですが見付けられませんでした。
「御成道」は堤防道路から 岐阜県羽島郡円城寺 海抜 m |
以下は 「関ケ原合戦と美濃・飛騨(岐阜県歴史資料保存協会)」による現地名の
中野・伏屋・三宅・上印食(かみいんじき)・両天橋・細畑(ほそばた)・加納八幡町・
安良町(あらまち)・柳町(現加納柳町)・新町(現加新町)・広江・笹土居(ささどい)
の善行寺と家康が一夜隠れ潜んだ権現山(駿河山)の画像を掲載します
以下のタイトル中の大文字で緑色文字は「関ケ原合戦と美濃・飛騨(岐阜県歴史資料保存協会)」に掲載してある地名です。
では史実に忠実と思われる御成道を |
出発点は「中野」の堤防上です。
御成-05-1
中野の「西明寺・ 岐阜県羽島郡円城寺中野 海抜 20 m |
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外堤坊から見下ろした「西明寺」 |
外堤防と本堤防の間にある「神明神社」 |
東へ進むと「秋葉神社」の茂みが見え本堤防から旧道へ下る分岐点を左へ下ります。 |
ここの地名に由来する「円城寺」は西へ50m程離れた場所にあります。
御成-05-2 中野の「円城寺」 岐阜県羽島郡円城寺 海抜 15m |
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円城寺は本堤防の南にあり本堤防に近い高い場所にあります・ |
先ほどの冨士神社脇の旧道へ下る道を北へ250m程進むと「中野」信号があり「御成り道」は更に北へ進みます。
御成-06 信号「中野」 岐阜県羽島郡円城寺中野 海抜 13m |
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本堤防脇にある「冨士神社」横を通り北へ250m程進むと最初の信号が「県道178」にあり県道を横断して北へ進みます。
この先旧道のため道幅は狭く曲がりくねっています |
信号「中野」交差点から450m程北進すると「伏屋」の「羽黒施設前」信号交差点です。
御成-07 伏屋 信号「羽栗施設前」 岐阜県羽島郡伏屋8丁目 海抜 12m |
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間違った「御成り道」の標識はこの交差点の西の交差点(「伏屋8」信号)にあります |
この「羽栗施設前」信号の西の200mの「伏屋8」信号交差点に「お成り街道」の標識がありますが
これは間違いと思われます。(「御成道」は街道でなく道です。この道は圃場整備の時にできた新道のはずです)
現地にはこのような標識がありますが |
元の道へ戻り更に北へ進みます。
「御成道」は、この交差点を更に北へ500mほど進むみ「御成り道」脇に「憶念寺」があります。
御成-08 憶念寺前を通る 岐阜県羽島郡岐南町伏屋4丁目 海抜 14m |
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寺の由来や縁起は不明です。 |
やがて北方に国道21号のガードが見え来ます |
御成-09 国道21号(信号名なし)横断 岐阜県羽島郡岐南町三宅9丁目 海抜 12m |
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国道21号の下をくぐり横断
三宅地区名は「関ケ原合戦と美濃・飛騨(岐阜県歴史資料保存協会)」に出てきます。
緑色で表した地名は「関ケ原合戦と美濃・飛騨(岐阜県歴史資料保存協会)」に明記された「関ケ原合戦後」当時の地名です。
御成-10 三宅 岐阜県羽島郡岐南町三宅 海抜 13m |
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県道77号を横断 後三宅地区へ
「三宅」という地名は「関ケ原合戦と美濃・飛騨(岐阜県歴史資料保存協会)」の御成り道の道順に明記されています。
寺の縁起や由来は不明です。 |
「御成り道」はここから斜めに(北西に)進んだと思われます。 |
斜めに進んだ道が途中から圃場整備とそれに伴う道路整備で道が東西南北間直に伸びて
「御成12
国道158横断」の項に繋がりません。
御成-11旧道消滅区間 岐阜県羽島郡岐南町上印食(かみいんじき) 海抜 13m |
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「大型スーパー駐車場」などが出来て旧道の面影は消えています。 この駐車場を斜めに「御成り道」は横切っていたと思われます。 |
国道158号へ続く道を進むと大型洋服店脇へ出ます。
御成-12 国道158横断箇所 岐阜県羽島郡岐南町八剣北 海抜 12m |
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大型洋服店脇を通って旧道は西北へ歩行者のみ地下トンネルで進め(横断)ます。 |
歩行者は地下トンネルで国道を横断すると「両天橋」へ出ます。
御成-13 「両天橋」 岐阜県岐阜市長森細畑 海抜 14m |
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「御成り道」は国道158号横断(大型洋服店の看板が見える所)して「両天橋」を渡り |
現在の「両天橋」には武者のレリーフがあります。 |
「両天橋」を渡ると100mほどで中仙道へ出ます。
御成-14 長森細畑(中仙道一里塚) 岐阜市長森細畑 海抜 16m |
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軽トラックの走っている道が中山道です。 |
当寺は、まだ「中山道」は整備されていませんが、古来の街道が通っていたと思われます。
その道を東軍は岐阜城下まで進み岐阜城を落とし
その道を用心しながら落城した岐阜城下へ家康を案内しながら進んだのでしょう。
御成道ー2 |
「御成道」は長森細畑の「一里塚」を中山道へ出て1400mほど、西へ進みます。
茶所には加納八幡神社があります。
「茶所」の地名由来
徳川家康が関ケ原へ向かう途中、喉か渇き休憩したとき、住民にお茶を所望し
大変 美味しかったことから、ここを「茶所」と呼ぶようになったと地元では伝えられています。
御成-15 茶所(加納八幡神社) 岐阜市上川手 海抜 10m |
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「関ケ原合戦と美濃・飛騨」岐阜県歴史資料保存会」発行資料にも加納八幡神社は明記されています。 |
「御成り道」は、この辺りの道を通って安良町へ向かったと思います。 |
「御成り道」は途中名古屋鉄道「茶所駅」横を横断します。 地元では家康が、ここを通った時、お茶を所望し地元の農民が接待したところ |
このあたりから境川の改修や道路整備(江戸時代の中仙道枡形工事)などにより関ケ原合戦後の様子とは異なりと思いますが、
「関ケ原合戦と美濃・飛騨(岐阜県歴史資料保存協会)」には安良町のなめが出てくるので、多分「安良町」内にある道標と
、秋葉神社の前を「御成り道」が通っていたと思われます。
御成-16 安良町(秋葉神社・道標) 岐阜市加納安良町 海抜 17m |
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安良町には明治時代の道標があります。 |
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左「西京」 右「岐阜・谷汲」 |
旧街道沿いに西へ50m程進むと「秋葉神社」があります。
秋葉神社のゴミ箱には「秋葉神社 安良町」の文字が見えます。 また、秋葉神社前の道は「中山道」と「御鮨街道」が重なっていますので側溝の蓋にも文字が入っています。 |
更に西に進み県道1号を横断すると「柳町」へ入ります。
この辺りは関ケ原合戦当時とは大きく変わってゐて |
御成-17 柳町 岐阜市加納柳町 海抜 15m |
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柳町には江戸時代の中山道「加納宿」入口で「番屋跡」があります。
「中仙道加納宿東番所跡」 |
この辺りから江戸時代の「中山道」整備に伴い加納城下へ入るため
枡形を7つも作り道の様子が大幅に作り替えられています。
しかし、家康が進軍したころはもっと簡単に笹土居の「善行寺」まで進んだと思われます。
御成-16 新町(加納新町 専福寺) 岐阜市加納新町 海抜 12m |
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「関ケ原合戦と美濃・飛騨(岐阜県歴史資料保存協会)」に出てくる新町は、現在の加納新町です。
新町付近には目立つ建物は「専福寺」ぐらいで、多分当時もこの道を通ったと思われます。
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新町(現在は加納新町)を過ぎ中仙道標識のある交差点を右折(北折)します。
画面の左に中山道の説明板、右端にも中山道の「道順標」がある交差点を左折(北折)します。 |
右折した後、北へ進むと広江へ出ます。
「広江」は「関ケ原合戦と美濃・飛騨(岐阜県歴史資料保存協会)」に出てくる地名です。
「広江」からは真直ぐに北の笹土居の「善光寺」へ向かったと思われます。
御成-19 広江(JR旧踏切跡) 岐阜市加納西広江 海抜 10m |
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先ほどの中山道曲がり角から北へ300m程進むと岐阜町への「木戸」があった場所へ出ます。 |
ここから「笹土居」の「善光寺」まではほとんど変わりなくぐねぐね曲がっていた田舎道が真直ぐに北へ延びていたと思われます。
そのため「小熊町2」信号まで2km程画像は省略します。
↓ 「長住町1」 信号へ |
「笹土居」角まで来たら右折(東折)します。
御成-22 笹土居角 岐阜市笹土居町 海抜 10m |
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「善行寺」への曲がり角(岐阜市小熊町2丁目)は「小熊町2」信号から北へ2本目を東(山側) |
曲がり1本目へ出ると左手に「善行寺」が見えます。 |
50mほど進むと「善行寺」前へ出ます。
御成-23 善行寺 岐阜市笹土居町 海抜 12m |
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善行寺 |
「善行寺」の裏山が家康が用心して一夜隠れ過ごしたと言われ後に「権現山(駿河山)」と呼ばれた山です。
付録 権現山(駿河山) 岐阜市駿河山1丁目 海抜 m |
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「善行寺」を北へ進と「権現山」への登り口があります。 |
権現山(駿河山)の山頂を望む |
「御成り道」編おわり