美濃の鎌倉街道

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(再編集中)

対岸へは下流(約1020m)に架かる揖斐大橋を渡ります。

美濃路ー05/15
「佐渡(さわたり)の渡し」から墨俣宿と「墨俣の渡し場」までをご案内します。

 

美濃路全区間を15区間に分けてご案内します。(本図は5区間目です)

佐渡の渡し(揖斐川)を西結へ渡ります

美2-12 佐渡の渡し場跡(西結)

安八郡墨俣町西結

北緯

35

22

06.4

東経

136

39

44.4

西結の堤防上には渡し場跡を示す社がありました。

堤防を下りると結神社があります。

美2-13 結神社

安八郡墨俣町西結

北緯

35

22

11.0

東経

136

39

49.4

鎌倉街道沿いに続く長い参道

 

             照手姫が結ばれた「結神社」
  安八の「鎌倉街道」沿いの西結にある「結神社」(嘉応年間(1169〜1171)の創設。
 常陸国の小栗判官殿と再会を願った相模国の照手姫が願をかけたところ、のちに結ばれたので「結神社」と言われるようになった伝説が残ることから、縁結びの神として信仰を集めています。
 境内には、側神像群、石狛犬、御手洗鉢、など町指定の文化財も数多くあります。
 このあたりの地名もこの神社から由来しています。

                 結神社縁起
 この地は多くの大宮人、名士、高僧の祈願をこめられた古歌が残っております。
  永享の頃(1430)照手姫は結大明神へ、七日間祈願し、小栗判官と再会し守り本尊一寸八分の黄金をこの社に納められました。(この守り本尊が町屋観音の本尊と伝えられています)
 天正三年(1575)織田信長が結大明神へ、七日間祈願し、朱印状を下したと伝えられております。
 文政九年(1826)越前の国(福井県)鯖江藩主 間部氏は、旅の途中 結大明神の下馬先をけがしたことを深く恥じ御手洗水鉢(みたらしばち)を寄進しました。
 明冶36年の揖斐川大改修により、旧境内は、河川敷となり、現在地に遷座申し上げました。
                           (現地説明版より)
                   安八町指定文化財 
一、彫刻・神像群(本殿内)
   大小十七体の神像群で、いずれも木彫である。この神像は御神体ではなく神社に奉納された 測神ではあるが年代の古いと思われるものもあり結神社の歴史を語る貴重なものである。
一、彫刻石造狛犬(一対)本殿内
 江戸時代前期三百十七年前寛文五年
 寄進 花村木左衛門

正確な位置は不明です。

美2-14 結城址

岐阜県安八郡安八町西結

北緯

35

21

58.4

東経

136

39

42.3

結城址と付近の城址高田二郎兵衛の館が結神社から南西700mの地にありました。

         結城の歴史
 高田二郎兵衛は斉藤道三の家臣で六人衆と呼ばれた大将格で天文年間(1532〜55)に結城主として三千貫を領し、東結入方の津島神社や社領を寄進したりしましたが、永禄四年(1561)五月、織田信長軍と森部で戦い大垣城主だった長井甲斐守衡安とともに討ち死にし斉藤軍は敗走ました。
            結神社と織田信長
 天正二年(1574)信長は長島の一向宗を焼き討ちしました。
 しかし、まだ東は武田勢、西には一向宗の反対勢力があり、翌天正三年(1575)、長篠の合戦、越前の一向宗を撃つ前に、この結神社に、七日間の戦勝祈願をしたと言われています。その後、信長は天下を取ることになった縁起もよい祈願でした。
              (安八町教育委員会)

結神社から80mほど東に町屋観音があります。

美2-15 町屋観音

岐阜県安八郡安八町西結町屋

北緯

35

21

03.1

東経

136

39

58.8

                 歴史の道
                   
鎌倉街道

 今からおよそ八百年くらい前のことです。 源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、京都と鎌倉を結ぶ道路が整備されました。
 京都から東山道を通って美濃の国に入り、不破郡の青墓宿から安八町町屋・入方・墨俣町二ツ木を通り上宿で長良川を渡って羽島市を通り尾張の国(愛知県)の黒田・下津を経て東海道へ入り、鎌倉へ通じることから鎌倉街道(美濃路)とも呼ばれ、当時は最も大切な道路であり史跡「鎌倉街道」「一里塚跡」が残る道です。

              この地を待合(町屋)という由来
 この地は中世の頃より交通の要衝で住家も並び一種の宿場町で、在る時はここを待合の場とされた時代もあり待合(町屋)の地名が付けられたといいます。
 結出身の蓑虫山人(むのむしさんじん=天保七年(1836)東結上村に生まれる)の絵日記のなかにも待合とか待合川とかの名が記されています。また、この地には大垣と名古屋を結ぶ鎌倉街道(美濃路)が通り、近くには渡し場や結神社があり旅館や店などがならび宿場町をなしてたといこうとから、いつの世からか待合の町屋と地名が改名されたようです。              

          照手姫ゆかりの町屋観音堂
この観音堂は嘉応年間(1169頃)創建の結神社と共に参道東側に建立されていましたが明冶24年の濃尾地震で本堂が倒壊し、また、揖斐川の河川改修(1904)にて其の地は河川敷となり、そのため約29年間民家にご本尊は安置されていましたが大正8年にこの地に本堂が再建されました。
 しかし老朽化とこのたびの歴史の道路整備事業の関係で平成6年現地に再建されました。

 この十一面観音は聖徳太子の頃の栴檀の木で彫刻された観音で、頭上の一寸八分(約6a)の黄金仏は照手姫の守本尊であります。
                         (現地説明板より)
                          「町屋」

  西結町屋は鎌倉時代からの交通の要所で揖斐川渡船場もあり住家も並び街道の宿場として賑わい村となりました。 何時のまにかこの地を、渡船を「待合う」ことから「町屋」と言われるようになった伝えられています。

更に東へ150mほど進むと右側に日吉神社があります

美2-16 日吉神社

岐阜県安八郡安八町東結

北緯

35

22

02.8

東経

136

40

00.7

詳しい由来は不明です

更に東へ80mほどの左側に「米の宮之跡」

美2-17 (よね)の宮之跡

岐阜県安八郡安八町東結

北緯

35

22

01.9

東経

136

40

02.4

               「米の宮之跡」(よねのみや)
 「当村往還の傍に昔よりあり、ヨネの宮といい後に転じて米之宮と言う、云々」と説明があります。 

「米の宮之跡」から780mほど東へ進むと堤防から下りる道があり、その道を下ります。

堤防下に東結ぶの一里塚跡碑と地蔵堂があります。

美2-18 東結の一里塚跡

岐阜県安八郡墨俣町先入方

北緯

35

21

52.9

東経

136

40

27.9

           安八町史跡 美濃路一里塚跡
 慶長九年(1604)初代将軍徳川家康は、江戸日本橋を起点として主要街道の一里毎に塚を築きました。 後に脇街道にも及ぼし、塚の大きさは五間四方(9b四方)が基準で、塚の上には榎(えのき)や松などを植えて旅人に便宜を与えました。
 昔、町屋から先入方に至る約1,300mの間は、立派な松並木でありました。
 松は「いがみしゃしゃくれ」といって曲がりくねっていました。
 三又のところに「左大垣道」之道しるべが建っていて、道の両側に一里塚がありました。
                         (安八町教育委員会)
 
地蔵堂の台座に「右 墨股 左 大垣」と刻まれ、脇には「美濃路 一里塚跡」の石碑があり、堤上の南北に一里塚がありました。
                     (一宮市尾西歴史民俗資料館)

東結之一里塚跡から堤防上へ戻り更に東へ1kmほど進むと堤防下へ下りる道があります。

堤防下へ下ります。墨俣宿へ入る西口です。

 

美2-19

 

本陣跡の堤防道路を南へ進むと「源平墨俣川の合戦」跡と源義円(みなもとぎえん)の墓などがあります。

本陣跡〜南へ1kmほどの地点に源義円をお祭りする「義円地蔵堂」などがある義円公園があります。

美2-33 義円公園

安八郡墨俣町下宿

北緯

35

20

58.8

東経

136

41

12.6

              源平墨俣川の合戦
 養和元年(1181)長良川をはさんで源平の大激戦が展開された。
 世にいう源平墨俣川の合戦である。
 同年二月四日平清盛病死す。
 東国源氏は勢を得て、京へ攻め上る。
 これを迎え討つため、平重衡を総大将として維盛・通盛・忠度・知度・盛綱・盛久などの武将七千余騎杭瀬川を渡り、右岸の墨俣側(上下宿)に陣す。
 一方源氏の将行家(新宮十郎蔵人)は千余騎を率いて左岸の羽島側に着陣す。
 源頼朝は応援のため弟の源義圓をつけ、西上させたが合流せず、2町を隔てて軍を整えた。
 義円は行家に先陣されては兄頼朝に合す顔がないと考え、唯一人馬に乗り、敵陣側の西岸にひそみ、夜明けとともに「義圓は今日の大将なり」と名乗って先陣のさきがけをしようと、白む夜明けを待っていたところ、見回り夜警兵に見とがめられ、「兵衛佐頼朝の弟で卿の公義円という者だ」というが早いか勇敢に戦い、武運つたなく、力尽き平盛綱に討たれた。
 源氏は戦利あらず、尾張源氏の泉太郎重光兄弟 討死し、行家の子太郎光家兄弟は平忠度に捕らえられた。
 敗れた源氏は退き、矢矧(やはぎ)川の東岸まで退き東国源氏の大兵来ると宣伝し勢を盛りかえして遂に平家を亡ぼすことになる。
 源義圓は頼朝の異腹の弟で義朝(源頼朝の父)の妾常盤御前の子義経と同腹の兄にあたる。
 幼名を乙若といい、天王寺に預けられていた。
 兄の挙兵を聞き、比叡山の僧兵のごとく坊主頭を頭巾に包み、黒染の衣を着て鎌倉へ駆けつけたと思われる。
 墨俣川の合戦で悲運の生涯を閉じた。 二十五歳である。
 (源平盛衰記・平家物語・吾妻鑑より) 
 里人は義円地蔵を刻み、堂を建て、毎年三月十日に供養を続けている。
 これより百五十米西に墓がある。
 昭和五十六年三月十日に八百年祭が行なわれた。
                          (安八郡墨俣町)

この戦いで敗北した源氏軍は東へ敗走します。
追撃する平家軍が現岐阜市柳津町佐波で陣を張って休んでいた所へ、
追いつき合戦となります。詳しくは「源平の古戦場」大垣城周辺の城址(02)を参照して下さい

源義圓(みなもとのぎえん)とは?

源氏の系図(源義家から四代までの抜粋)

「旅と犬と史跡巡り」(23pro.tok2.com/freehand2/rekishi/keizu-genji.htmを参考にさせていただきました。

┬ 義朝────┬義平(母は三浦義明娘とも京都橋本の遊女とも。平治の乱後に捕らわれ斬首)                                                                          
│                    │                                                                               
├義賢──┐   ├朝長(母は波多野義通の妹。平治の乱後に自害)        ┌千鶴丸(3歳で祖父に殺される。母は伊東祐親の四女・八重)       
│              │    │                                                                                                   │                                                                                       
├義憲(義廣)   ├頼朝(母は熱田神宮大宮司藤原季範の三女・由良御前)─   ┼大姫(20歳で病死。以下、実朝まで母は政子)                               
│              │    │                                                                                                   │                                                                             
├頼賢   │    ├義門(頼朝と同母?・平治の乱後に戦死?)                            ├頼家(ニ代将軍)────┬ 一幡(母は比企能員の娘若狭局。
│             │    │                                                                                                   │                                           │
├頼仲   │    ├希義(頼朝と同母?・土佐で戦死)─希望(土佐吉良氏の祖)  ├乙姫(14歳で病死)         ├ 公暁(実朝を殺し死亡)        
│             │    │                                                                                                  │                                            │
├為宗   │   ├範頼(母は近江池田の遊女)─範円─為頼─義春─義世    ├実朝(三代将軍)       ├ 栄實(承久元年自害)
│             │    │                                                                                                  │                                            │
├為成   │    ├阿野全成(母は常盤)─時元                                                  └貞暁(母は藤原朝宗の娘) ├ 禅暁(京都で殺害される)  
│             │    │                                                                                                                    (鎌倉法印)            │
├為朝    │    ├義圓(母は常盤。墨俣川の合戦で討死)                                                                             └ 竹御所(藤原頼経室)
│            │    │             
├為仲     │    └義経(母は常盤。平泉高舘で自害)
│       │
 └行家   ├──仲家(義賢が殺された時は在京し頼政の養子となる。後に宇治川で平家と戦い討死)
                  │
                └──義仲(母は義賢の側室・小枝御前)─義高(母は山吹御前・巴御前説もあり)  │       
               治承、寿永の乱
 
治承、寿永の乱(じしょう、じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180)から元暦2年(1185)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。
 後白河天皇の皇子である以仁王による挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする六波羅政権ともよばれる平氏政権に対する反乱が起こる。
 最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。
 そうした中の同年閏2月に、平清盛が熱病で没して平氏政権は強力な指導者を失う。
 しかし、直後の3月、平氏政権は再び東海道へ追討軍を派遣し、尾張墨俣川で関東政権軍と会戦して平氏軍が勝利を収めた(墨俣川の戦い)。
 この結果、源氏軍による東海道方面の進撃は一時中断することとなる。
  しかし平家はこの年から活発化した北陸の反平家勢力の蜂起は見過ごすことができず、8月に平通盛、経正を将とする軍を派遣する。
 しかし、通盛と経正の連携が上手くいかない上に、兵糧不足になやまされた平家は北陸地方の反乱を鎮圧することができずに北陸から撤収する。
 この年、京都では「養和」と改元されたが、頼朝ら反平氏勢力はこれを認めずに治承の元号を用いた。 この年から翌年にかけて養和の飢饉という大飢饉が起きたことに加え、平氏政権は安徳天皇の大嘗祭の実施(11月24日)を優先し、源氏軍も頼朝が未だに平治の乱の赦免を受けておらず、上洛のための政治的、軍事的条件を整える時間が必要であった。
 九条兼実の日記『玉葉』にはこの年の8月1日条にて、先頃後白河法皇の元に頼朝の密使が送られたことを記している。

この戦いで源氏側は大敗を喫し、尾張源氏の泉太郎重光兄弟ら多くの武将が討ち死にしたり、捕らえられたり、溺死したりする者六百九十余人に及びました。
村人がお祀りした地蔵堂から150mほど離れた田の中に墓があります。
常磐御前
 義圓は知多半島で入浴中に討たれた父、義朝の妾、常磐御前の子で、幼名「乙若」と言い頼朝とは異腹兄弟で弟に「牛若」(源義経)がいる。
 母、常磐御前は二人の子を追い赤坂まで来たとき、賊に襲われ殺されて子供に会うこともできず赤坂で葬られました。
(詳しくは「中山道関ヶ原・常盤御前墓」で紹介します)

源義円(圓)供養塔

史跡 源平墨俣川古戦場碑

義円地蔵堂

義円公園の西150mほどに源義円の墓があります。

美2-34 源義円(ぎえん)の墓

安八郡墨俣町下宿

北緯

35

20

59.8

東経

136

41

08.6

柿の実に飾られた墓の標識

田んばの中に今も残る墓石

義円公園の北100mほどに鎌倉街道が残っています。目印は西来寺です。

美2-35 西来寺

安八郡墨俣町下宿

北緯

35

21

12.2

東経

136

41

12.5

西来寺の西に不破神社があり、その境内に鎌倉街道碑があります。

壬申の乱伝説がある
美2-36
不破神社

安八郡墨俣町下宿

北緯

35

21

12.5

東経

136

41

10.5

     史跡・伝説案内 大海人皇子と不破明神
 西暦671年天智天皇崩す。
 先に吉野に難を逃れていた東宮である弟の大海人皇子(天武天皇)と太政大臣である御子の大友皇子(弘文天皇)の間に皇位継承の争いが起きた。 壬申の乱である。
 中央集権国家成立期における最大の悲劇である。
 大海人皇子は大津宮を去り、吉野に逃れたが、更に身の危険を感じ伊賀、鈴鹿より東宮の領地である美濃に逃げる。
 従うものは鸕野讃良皇女(うののさらのひめこ)をはじめ二十人ばかり。
 ここで敵に襲われたらもう助からない。味方のいる美濃までは何とか逃れたいと強行軍が続く。
 この後、安八磨郡の湯沐令多臣品冶に告げて兵を集め、不破道より近江に入り、大友皇子を討ち滅ぼし、飛鳥浄御原に即位された。
  宇治捨遺物語に『大海人皇子墨俣に渡にて難を逃れたまう』と記してある。
 その一節を示すと『この国の州俣のわたしに舟もなく立っておられた。女が大きな湯舟で布を入れて洗っているとのを見て、「何とかして渡って行きたいが」といわれると、女は「一昨日大友の御使といふものが来て、渡舟場の舟をみな隠して行ったので、ここを渡っても多くの渡船場を通過することはできない。こうして話をしているおるうちに今敵軍が攻めて来るでしょう。どうして逃れられますか」という、「さてどうしたらよいか」と申されると、その女がいうのは「あなたを拝見するとただ人ではなく貴い人のようです。ではこうして下さい」と言って、湯舟をうつぶせにして、その下に伏せ奉りて、上に布を多く置いて、水汲みかけて洗っていた。
  しばらくして兵 五百人ばかり来て、女に問うて言う。「ここより人が渡って行ったか」といえば、女は「貴い人が軍兵千人ばかり率いてこられた。今頃は信濃の国に入っておられるでしょう。素晴らしい龍のような馬に乗って飛ぶように見えた。この小勢で追付いても皆殺されてしまうでしょう。これから帰って軍を多く備えて追うとよいでしょう」というと、本当にそうだ思って大友の皇子の兵は引き返した。
 その後 大海人皇子は女に仰せられるには「この辺で軍勢を集めたいが出来ないだろうか」と問われると、女はしりまどいて、その国のむねとあるものどもを集め語り合うと二、三千人の兵が出来た。
 それを引具して大友皇子を近江国大津に追い討ち滅ぼされた。
 このすのまたの女は不破明神の化身であると伝えられている。』  (不破神社説明板より)
   大海人皇子と鸕野讃良皇女と薬師寺
 奈良薬師寺は病気の皇后(鸕野讃良皇女、のちの持統天皇)のために、天武天皇(大海人皇子)が建てようとしたお寺である。それは奈良に都ができる三十年前のことだった。
 薬師寺を建てはじめたころ、幸いに皇后の病気は平癒、ところが今度は天武天皇が病気になり、遂に亡くなってしまう。
 持統天皇は、亡くなった天武天皇を強く思慕しつつ、遺志を継いで薬師寺を完成させた。
 薬師寺は、初めは藤原京(奈良県橿原市)に建てられたが、遷都により、平城京に移ってきた。
 東寺は三重塔。しかし屋根の下にそれぞれ裳階(もこし)が付くので、一見すると六重塔にみえる。大きな屋根の下に小さな裳階。
 度重なる兵火にかかり当時から残るのは東塔(手前)のみです。

「古道」の始まり
 「鎌倉街道」の前から東海道の”熱田の宮”より「東山道」美濃の国府を結ぶ官道がありました。
 そのころの「州俣(墨俣)の宿駅」は現在の墨俣町上宿と下宿の地に当たります。
 また、日本武尊が伊吹平定に通ったとも伝えられています。
 仁明天皇の御代、承和二年にこの渡しに二艘の渡舟を四艘に増やし、布施屋(無料休憩所)二ヶ所・墨俣川(長良川)両岸(上宿と小熊=墨俣町上宿と羽島市小熊)に建てたと太政官符に記録されています。
 その後鎌倉に幕府が置かれると京都と鎌倉を結ぶ重要街道として整備されました。
 源頼朝、藤原頼経、十六夜日記の阿佛尼、東関紀行の源光行などが通っています。
 室町末期以降の船着き場は中町・本町(200mくらい上流で本陣・脇本陣などがある町)に移り、名前も「美濃路」となりました。

不破神社の西隣に十一面観音堂があります

美2-37 鎌倉街道と    
   
十一面観音堂

安八郡墨俣町下宿

北緯

35

21

12.7

東経

136

41

09.8

鎌倉街道

昔は観音堂前に鎌倉街道標識が

鎌倉街道
 長良川畔の「墨俣町」から揖斐川畔の「町屋」までに鎌倉街道が残っています。
鎌倉街道は鎌倉時代、源頼朝が「鎌倉幕府」を開いた時に、鎌倉から京都まで整備した「官道」で、さまざまな文化の行き交った道として歴史的にも貴重な街道です。

街道は墨俣「上宿」から
 中山道探訪4-2脇街道「美濃路」の羽島市小熊」の渡しで長良川を渡ると、この墨俣町の「上宿」へ着きます。

「壬申の乱」とは
 関ヶ原合戦より以前に、古代日本を二分下天下分け目の戦いが「壬申の乱」です。
前兆
 時の天皇「天智天皇」は皇位継承者を皇太弟(こうたいし=天皇の弟)の大海人皇子(おおあまのおうじ)に決めていました。
 
しかし、しばらくして実子の大友皇子(おおとものおうじ)に皇位を譲りたくなり、671年1月5日に新しいポスト「太政大臣」(だじょうだいじん)を作り大友皇子を任命しました。
 それ以降、 大海人皇子を政権から遠ざけようと、いろいろ手を打ちました。
 しかし、間もなく天智天皇は病床に伏す身となり、枕元に大海人皇子を呼びあとを託しましたが、大海人皇子は”陰謀”を感じ、これを固辞し出家し、妻(後の持統天皇=じとうてんのう)、子とともに吉野に隠棲し皇位への野心のないことを公に示しました。
下地
 天智天皇は皇極天皇、中大皇子、中臣鎌足らと謀り、蘇我蝦夷・入鹿父子を殺害し大化改新(645年)を断行し叔父の軽皇子を天皇・孝徳天皇とし、自らは皇太子として政治の実験を握り天皇制の確立とした政治改革を推進し、途中反対派の古人大皇子と有馬皇子とを殺害し、後に自らが天皇になリました。
乱勃発
 671年12月天智天皇が没し、政情不安の中、身の危険を感じた大海人皇子は吉野を脱出し、自分の領土の美濃へ昼夜兼行で伊賀・伊勢を回り美濃国不破(関ヶ原)まで急いだ。
 ここに行宮(ぎょうぐう=本陣)を置き、集めた兵を2軍に分け、機先を制せられた大友皇子軍を攻め、瀬田川まで追いつめ、大津京を陥落させました。
自害峰と桃配山
 大友皇子は長等山において自害され、その御首級は、不破の行宮(本陣)に運ばれ首実検の後、葬られ、自害峰として現在も伝えられています。(中山道・不破の関・常盤御前墓の巻に詳細あり)
 また、徳川家康が関ヶ原合戦の時、最初に陣を張った「桃配山」の呼称はが「壬申の乱」の時に
この地で桃を配って兵を激励したという言い伝えから来ているそうです。
 家康もこの、故事にあやかって、見通しの悪いこの「桃配山」に陣を置いたのかも知れません。(中山道関ヶ原宿に詳細あり)
律令体制整備
「壬申の乱」に勝利し、実力で皇位に就いた大海人皇子は「天武天皇」となり天皇の神格化・律令体制の整備を推し進めました。

 

 

関ヶ原の手前「長良川西河畔(大垣市墨俣町上宿)に壬申の乱の序章と言える伝説があります。

序、 編

序編は現大垣市墨俣町の不破神社から話は進みます。
鎌倉街道沿いの不破神社縁起説明板があります。

壬-01.洲俣不破神社
(すのまた=
墨俣)

大垣市墨俣町下宿(しもじゅく)

北緯

35

21

12.5

東経

136

41

10.5

兵を起こした不破神社
吉野
へ身の危険を感じ、逃れていた大海人皇子が
美濃へ逃れ兵を起こした場所不破神社

不破神社には大きな史跡・伝説案内板が境内公民館わきにあります。

大海人皇子と不破明神
宇治捨遺物語「大海人皇子洲俣(大垣市墨俣町)の渡しにて難を逃がれたまう」と記してある。

”この国の洲俣のわたしに舟もなく立っておられた。
女が大きな湯舟で布を入れて洗っておるのを見て、
「何とかして渡って行きたいが」といわれると、
女は「一昨日 大友の御使といふものが来て、渡し船をみな隠して行ったので、
ここを渡っても多くの渡船場を通過することはできない。
こうして話しておる内に今敵軍が攻めて来るでしょう。
どうして逃れられますか」
という、

「さてどうしたらよいか」と申されると、その女がいうには
「あなたは拝見するとただ人でなく貴い人のようです。ではこうして下さい」と言って、
湯舟をうつぶせにして、その下に伏せり奉りて、
上に布を多く置いて、水汲み掛けて洗っていた。

しばらくして兵共、五百人ばかり来て、女に問うて言う。
「ここより人が渡って行ったか」といえば、
女は「貴い人が軍兵千人ばかり率いてこられた。
今頃は信濃の国に入っておられるでしょう。
すばらしい龍のような馬に乗って飛ぶように見えた。
この少勢では追付いても皆殺されてしまうでしょう。
これから帰って軍を多く備えて追うとよいでしょう
」というと、
本当にそうだと思って大友の皇子は引き返した。

その後 大海人皇子は女に仰せられるには
「この辺りで軍事を集めたいが できないだろうか」
と問われると、
その女はしりまといて、その国のむねとあるものどもを集め 語り合うと二、三千人の兵ができた。
それを引具して大友皇子を近江国大津に追い討ち滅ぼされた。

このすのまたの女は不破明神の化身でると伝えられている。

不破神社説明板より)

壬申の乱伝説のある「不破神社」は国道23号「墨俣東」信号から南進した先にあります。
「源義円の墓」については美濃路七宿「美濃路ー2」「源義円の墓」「源義円の公園」
参照して下さい。

不破神社
前を鎌倉街道が通っています。

大垣市墨俣は秀吉の「一夜城」墨俣一夜城参照)で有名ですが、
同じ地内に「壬申の乱」にまつわる伝説があるとは知りませんでした。
(シルバーの散歩道)

蛇足(不破神社の向かいには水屋があります

水屋とは
この辺り、昔は水害は当たり前で洪水になると一家が、この「水屋」と云われる
一段高い場所に避難して水が引くまで過ごしました。
部屋は勿論、井戸やトイレもあり天井からは小舟もぶら下げてありました。

不破神社の前は「鎌倉街道」です。

鎌倉街道碑
不破神社の隣には鎌倉街道の旅の安全を祈る十一面観音堂と「鎌倉街道 上宿」碑があります。
(この辺りの詳細は中山道美濃十七宿の「源朝長の墓」編か「美濃国分寺」編を参照して下さい)

この他この近くには「源義円(ぎえん=源義朝の九男)の墓」もあります。
(源義円は義経の華々しい戦いの陰に隠れ、頼朝から疎まれていたので、
この地の長良川畔で平家軍と対峙した時、手柄を立てようと単身、
闇に紛れて対岸に渡り身をひそめていた所を夜明け前に敵の見回りに発見され簡単に討たれて果てました。)
詳しくは美濃路七宿「美濃路ー2」「源義円の墓」「源義円の公園」を参照して下さい。

序編(続き)、美濃 赤坂 編

 

壬申の乱の大海人皇子
壬-01-1. 岡山「弘文天皇壬申難古跡」碑

大垣市赤坂町字勝山

北緯

35

21

東経

136

27

大垣市赤坂の岡山の山頂に
「弘文天皇壬申難古跡」碑があります。

赤坂岡山の「弘文天皇壬申難古跡」碑

大垣市赤坂町岡山山頂

「弘文天皇壬申難古跡」
麓の「安楽寺」(創建:593年)に大海人皇子は壬申の乱(672年)に際し
祈願し、勝利をおさめたのち大友皇子の冥福を祈り同寺に
宝物を寄進したと言われています。
碑はその後に建てられたものだそうです。

壬申の乱大海人皇子「弘文天皇壬申難古跡」
県道218号から「安楽寺」へ、車の方は同寺の駐車場を利用し
本堂南から裏山(勝山=岡山)の墓道を上り山頂へ

「弘文天皇壬申難古跡」
(右手にある碑は、関ケ原合戦の「史蹟 岡本本陣跡」の碑です)

柵内には大友皇子の慰霊のために建てられた宝篋印塔の一部が見えます。

「弘文天皇壬申難古跡」碑の近くに
「史跡 関ケ原合戦岡山本陣址」碑もあります

史跡 関ヶ原岡山陣跡

この山は、海抜53メートルの立稜で慶長五年(1600年)
関ヶ原合戦のとき東軍の総大将徳川家康の本陣が構えられところで、
天下分け目の大合戦に勝利を得た徳川ゆかりの地を記念して
岡山の名を勝山と改めと伝えられています。
(詳しくは関ケ原合戦の前哨戦と岡山本陣址のを参照してください)

壬申の乱の大海人皇子
浄土宗紫雲山安楽寺

「安楽寺」(創建:593年)に大海人皇子は壬申の乱(672年)に際し
祈願し、勝利をおさめたのち大友皇子の冥福を祈り同寺に
宝物を寄進したと言われています。

 

壬申の乱の大海人皇子
壬-01-2. 杭瀬川の名の由来

大垣市赤坂町

壬申の乱の折、矢傷を負った「大海人皇子」が矢の根川の水で傷口を洗ったところ、
たちどころに傷が治ったと言われる。
そこで、この川を「苦医瀬(くいせ)川と呼んだと伝えられています。
(赤坂宿記より)

次は関ケ原町野上・松尾へ史実は移ります。

起編、不破郡 野上 編

第二部は古代の重要な場所で「東山道」に置かれた「三関」の一つ「不破関」があった不破郡地内です。
関ケ原町の入口「野上」は現在も交通の要衝、JR東海道新幹線・JR東海道本線・国道21号・名神高速道路が集まってくるところです。

壬申の乱の大海人皇子
壬-02. 野上行幸宮
(のがみあんぐう)

不破郡関ヶ原町字野上

北緯

35

21

東経

136

27

野上行幸宮址
国道21号「野上」信号(押しボタン信号)東の道を南へ、
50mほど先のJR東海道新幹線のガード下をくぐる。
道なりに100m程進むと案内標識がありその先の右側(西側)に
野上行幸宮址
があります。

「野上行幸宮址(のがみあんぐうあと)」
古代最大の内乱と言われる壬申(じんしん)の乱(672)において、
大海人皇子(おおあまのおうじ)は野上の長者屋敷と呼ばれる
小高い小平地に行宮を興して本営としました。
この地は高操(こうそう)にして、眺望も良く、朝鮮式の土器も出土しています。
乱後行基(ぎょうき)が行宮廃材で南方六坊(みなみかたろくぼう)を建てたという、
ここが別通称寺社屋敷が、行宮跡地と伝えられています。
(関ケ原町)

国道21号「野上」信号を南へ入り、
正面のJR東海道新幹線のガードをくぐります。

ガードをくぐり、そのまま真直ぐに100mほど進むと案内標識があり、
その先の墓地の向こうに「野上行幸宮址」が右側(西側)あります。

斑女の観音堂のある真念寺は国道21号「野上」信号の東にあります。
その東に「野上行幸宮址(のがみあんぐうあと)」の標識があります。

 

壬-02-1.斑女観音堂
(真念寺)

不破郡関ヶ原町字野上

斑女観音堂(真念寺)は国道21号から大海人皇子行宮跡への入口にあります。

斑女観音堂
平安の中頃、都の吉田少将(よしだのしょうしょう)がここ野上の長者宅に泊まった際、
給仕の花子と契りを結びます。
少将が東国へ発った後、生まれた梅若丸は夫の許(もと)へ送られます。
便りがないので花子も跡を追い探すしますと、夫は都へ帰り、
梅若丸はつい先頃亡くなったことを知ります。
花子は狂気して野上に戻り、ひたすら観音を念じたと言います。
中央に祀られているのが花子の観音像です。
これは昔の中国の斑女の話に酷似していることから、その名がつきました。
(関ケ原町)

斑女観音堂がある「真念寺」

斑女観音堂(真念寺)から200mほど国道21号を西へ進むと「桃配山」がある。

壬-03.壬申の乱桃配山

不破郡関ヶ原町野上  海抜 96m

北緯

35

21

44.

東経

136

29

25.

桃配山
天下をわける壬申の乱の大いくさは千三百年ほど前であった。
吉野軍をひきいた大海人皇子は、不破の野上に行宮をおき、わざみ野において、
近江軍と向き合っていた。急ごしらえの御所に、皇子がはいったのは、六月の二七日である。
野上郷はじめ、不破の村人たちは、皇子をなぐさめようと、よく色づいた山桃を三方にのせて献上した。
「おお、桃か。これは縁起がいいぞ!」皇子は、行宮につくが早いか、桃の出迎えにあって、こおどりして喜んだ。
皇子は、はたと膝をたたき、不破の大領を呼んだ。「この不破の地は、山桃の産地であると聞く。
なかなか味もいい。どうだろう。わたしはこの桃を、軍団みんなに一個ずつ配ってやりたい。
戦場における魔よけの桃だ。これを食べて戦場に出れば、武運百倍。
もりもりと働いてくれよう。
大領、この近郷近在の山桃を全て買い上げ、軍団の兵士皆に、私からの桃だといって、
配ってくれ」 大領、宮勝木実(みやかつのきみ)は、胸を打たれて平伏した。
木実は行宮所在地の大領(郡長)として、御所を建て皇子をお守りしている。
「ありがたいことでございます。戦勝につなぐ縁起のいい桃。
兵士の命を守る魔よけの桃。天子様から賜った尊い桃。全軍の兵士は勿論、村の者たちも、
涙を流して喜び存分の働きをしてくれるでありましょう。」
このとき木実が確信したとおり、この桃を押し戴いた数万の将兵の士気は、いやが上にも高まり、
連戦連勝、ついに大勝を果たしたのであった。
此の奇縁により、この桃を配った所を桃配山とか、桃賦野(ももくばりの)とよんで、今に伝わっている。
九百年のあと、徳川家康は、この快勝の話にあやかって桃配山に陣をしき、一日で天下を自分のものにした。
(現地説明板より)

この「桃配山」に最初に陣を張って勝利を招いた「大海人皇子」にあやかって
徳川家康は「関ヶ原の合戦」で縁起を担いで最初に陣を置きました。
現地から西軍の石田三成本陣「笹尾山」は見えませんが、
家康はここに最初に陣を置く事に意義があったのです。
桃配山には「徳川家康最初の陣址」の碑もあります。
(詳しくは「関ケ原合戦古跡」の徳川家康最初の陣址」を参照して下さい)

次は古代「和蹔邑」(不破郡松尾・藤下)と呼ばれた地区へ

 

承編、和蹔邑周辺     
      
(わざみむら)=不破郡松尾・藤下

壬申の乱 第三部、不破関があった「和蹔邑」(わざみむら=不破郡松尾・藤下地区)

和蹔邑(わざみむら=不破郡松尾・藤下地区)には13箇所の史跡があります。
番号順に廻れば効率よく史跡巡りができ、次の玉地区へ継なげます。

「関ケ原合戦古戦場跡」も合載した順路
下記の地図は「関ケ原合戦古戦場跡」もついでに巡りたい方のために、
この地区にあるの五か所の関ケ原合戦陣址も掲載してあります、参考にしてください。

最初は、壬-04不破関 北限土塁址」です。
国道21号「松尾」信号を北へ入りJR東海道本線を渡ります。

国道21号「松尾」信号脇の標識
標識は東向きで民家の陰にあるため西から来た車(人)は見落とします。

標識には次の様にあります。

宇喜多秀家陣跡 700
開戦地       600
小西行長陣跡   600
島津義弘陣跡   750

見落としてもあまり関係ない案内のように思えます。

国道21号「松尾」信号
国道21号関ケ原松尾地区の押しボタン信号を北折し、JR東海道線の上を横断して最初の三叉路を
西へ曲がり70m程進むと南側に「松尾墓地参道入り口」と「不破関 北限土塁址」の標識が見えます。

標識から50mほど進むと「不破関 北限土塁址」の案内板があります。

 

壬-04.北限の土塁跡

不破郡関ヶ原町字松尾   概算高度 135m

北緯

35

21

31.

東経

136

27

43.

土塁の真ん中を駐車場への道が縦断しています。(残念!)

北限の土塁跡
「北限の土塁跡」は和蹔邑(わざみむら)周辺(不破郡松尾・藤下)の北部にあり、
国道21号「松尾」信号を北へ入ってJR東海道本線の上を渡り、
最初の三叉路を西へ曲がり70m程の左側に標識があり、標識を南へ入るとあります。
上図では壬-04「北限の土塁跡」です。

不破関北限土塁址
ここは不破関の土塁が顕著に、その形体を留めている所です。
八世紀の初期に構築された この北限土塁は、東西460mの規模で、
現在の高さ約2m、基底部の幅約5〜6mが確認できます。
この後方の東北角(すみ)は鬼門にあたり、北限と東限野土塁が交わり、
土塁をまたいで望楼が建っていました。
因みに関内面積は約37,372坪ありました。
(関ケ原町)

「東北角の土塁跡」は「北限の土塁」の更に南東にあり標識も道もない場所にあります。

壬-05.東北角の土塁跡

不破郡関ヶ原町字松尾   (車両侵入不可)

北緯

35

21

東経

136

27

上図では壬-05「東北角の土塁跡」です。

「東北角の土塁跡」
「北限の土塁跡」
から更に50mほど南へ進み、駐車場の脇を東へ進むと土塁らしき跡があります。
目印も案内板もありません。

東城門跡は国道21号「松尾」信号へを北西に100mほど入り変則四差路が壬-06東城門跡」です。

壬-06.東城門跡
(ひがしきもん)

不破郡関ヶ原町字松尾

北緯

35

21

東経

136

27

上図では壬-06「東城門跡」です。

国道21号「松尾」信号を北西に100mほど進むと変則四差路へ出ます。
正面に「井上(いのがみ)神社」碑があり右側(北側)に説明板と標識があります。

美濃不破関 東山道(とうさんどう)と東城門
美濃不破関のほぼ中央部を東西に東山道が通り抜けていた。
関のここ東端と西端には城門や楼(ろう)が設けられ、兵士が守り固めていた。
日の出とともに開門、日の入りとともに閉門された。
また、奈良の都での事変や天皇の崩御など、国家的な大事件が起きると、
中央政府からの指令によって固関(こけん)がおこなわれ、
すべての道の通行が停止された。
(関ケ原町)

次の「壬-07鍛冶工房跡」へは「壬-06東城門跡」から南へ250mほどの西側に説明板あります。

壬-07.鍛冶工房跡

不破郡関ヶ原町字松尾   概算高度 125m

北緯

35

21

18.

東経

136

27

50.

鍛冶工房跡
上図右中央下部あたりの壬-07鍛冶工房跡」に説明板あり。
説明板の西一帯が「鍛冶工房跡」です。

途中に福島正則」陣跡案内版
東城門跡の変則四差路から南へ進み70m程の三叉路に
関ケ原合戦古戦場の「福島正則陣址」の方向案内があります。
画面の先あたり右側に「鍛冶工房跡」案内板があります。
(「福島正則陣址」は「関ケ原合戦古跡」を参照して下さい)

美濃不破関「鍛冶工房跡」
ここは不破関の東南角の地点で、東限の土塁と南限の土塁が交差する不破関の重要な地点であった。
土塁で囲まれた内側を調査したところ、炉壁や鉄滓(てつさい)などが出土し、
伴出遺物からみても奈良時代の工房跡の存在が確実視されるところである。
一方、中世の陶器と共に中国銭が数多く出土し、
鎌倉時代には伊勢街道沿いのこの地点で関銭が徴収されていたことも明らかとなった。
(関ケ原町)

「鍛冶工房跡」と云われる あたり一帯

井上神社へは「鍛冶工房跡」から更に南へ約300mのJR新幹線下を通り
直ぐ西へ曲がると直に鳥居があります。

JR東海道新幹線の下をくぐって西へ曲がると正面に「井上(いのがみ)神社」の鳥居が見えます。

 

壬-08.井上神社
     (いのがみ)

不破郡関ヶ原町松尾

北緯

35

21

10.6

東経

136

27

53.9

上図では右下部の壬-08井上神社」です。

        「壬申の乱」と「天武天皇」
 672年、藤古川を挟んで西軍の弘文天皇と東軍の「天武天皇」との天下分け目の戦いがありました。
 この戦いで「天武天皇」が大勝利をおさめることが出来たのは美濃の国の人々が活躍したからと云われています。
 この「井上神社」は「天武天皇」をお祭りしています。
 「藤古川」の向こうの山中藤下の「八幡様」には「弘文天皇」がお祭りしてあります。

境内の裏にはJR東海道新幹線の柵が見えます。
新幹線が走る姿を狙いしばらく待ちましたが、来ないのであきらめて背を向けた時に
アッという間に列車は轟音ともに走り過ぎました。

「井上神社」から「南限の土塁跡」へは、再びJR東海道新幹線の下へ戻り直に西へ進みます。

西へ進み突当りを北へ

北へ120m程進むと左側(西側)に標識と案内板が立っています。

壬-09.南限の土塁跡

不破郡関ヶ原町字松尾    概算高度 127m

北緯

35

21

17.

東経

136

27

47.

美濃不破関 南限の土塁跡
美濃不破関の南限にあたるこの地点には、大きな土塁が築かれていた。
昭和51年、岐阜県教育委員会が実施た不破関の発掘調査によって、
土塁跡が確認され、その築造法も明らかとなった。
この南限の土塁から北限の土塁までは、直線で432m
南限の土塁については東西長112mを測る。
(関ケ原町)

目の高さで確認できる土手らしきものが続きますが足場が悪く適当な所で確認画像を撮りました。

次に中山道まで戻り壬-10.不破関庁跡と天武天皇の兜掛石と沓脱石」

壬-10.不破の関庁跡  
  
天武天皇の兜掛石と沓脱石

不破郡関ヶ原町松尾

北緯

35

21

21.8

東経

136

27

42.2

「不破の関庁跡天武天皇の兜掛石と沓脱石」
標識は中山道沿いの北側に道路より少し入った場所にあるので見逃さないように。

中山道沿いの北側に標識あり

場所は個人のガレージの裏
不破の関守跡が見える手前50mほどの右(北)の民家の庭(奥にガレージ)に
「不破の関庁舎跡・天武天皇の兜掛石・沓脱石」の標識があります。
史蹟はガレージの東の60cmほどの細道を奥(北)へ入ります。

標識のある家の庭を奥へ入りガレージの脇の細い道を更に奥へ抜けると広い畑に出ます。

不破関資料館模型
不破資料館入場券に描かれた模型図

不破関庁舎跡
 この辺りに不破関庁舎の中心建物があったとされ、関内の中央を東山道(とうさんどう)が通り、
その北側に瓦屋根の塀で囲まれた約一町(108m)四方の関庁が設けられ
、内部には兵舎、食料庫、兵器庫、望楼等々が建っていたそうです。

不破関庁舎跡と兜掛石
 この辺りに中心建物があったとされ、関内の中央を東山道が通り、
その北側に瓦屋根の塀で囲まれた約一町(108m)四方の関庁が設けられ、
内部には庁舎・官舎・雑舎が並び、周囲の土塁内には兵舎・食料庫・望楼等々が建っていました。
ここに祀られている石は、壬申の乱の時、大海人皇子が兜を掛けた石と伝えられ、
左斜め後ろには同皇子使用の沓脱石があります。
(関ケ原町)

兜掛石

沓脱石

次の「不破関守跡」は中山道を西へ50m程の南側にあります。

壬-11不破関守跡

不破郡関ケ原町松尾26 海抜 126

北緯

35

21

21.

東経

136

27

39.

「大宝令」によって「日本三関」が設置される。
「壬申の乱」(672年)の後、畿内と東国との接点であるこの地に関が置かれ、大宝令(701年制定)によって
東海道の「伊勢鈴鹿関」・北陸道の「越前愛発関」(あらち)と共に東海道の「美濃不破関」
「三関」として規定されました。

「不破の関」は軍事・警察の機能を兼備する重要な拠点でしたが、延暦八年(789年)七月、
「三関」は突如として停廃されました。
兵器・狼備(狼煙の設備)は国府(美濃国府)に運収され、諸建物は便郡(不破郡)に移築されてしまいました。

岐阜県教育委員会が昭和49年から五次にわたって実施した不破の関跡発掘調査によって「不破関」の概要が
明らかとなり、是を契機に昭和57年、不破関の一角に資料館が建設されました。

中央辺りにあります。

町・県史蹟 不破の関守跡
「木曽路名所図絵」にも描かれている、関藤川より大木戸坂を
登りきったあたりのこの一帯が、関守の屋敷跡です。
関守は延暦八年(789)の関の停廃後に任命されたと考えられます。
関守宿舎は関庁跡推定地の西隅に東山道を挟んで位置する、
段丘際の眺望の良い所にあり、格好の地にあったといえましょう。
(関ケ原町)

 「不破関守跡」から中山道を西へ50mの二股路の北側に「不破関資料館」登り口があります。

 

壬-12.不破関資料館

不破郡関ヶ原町松尾

北緯

35

21

21.3

東経

136

27

39.6

入場料は大人・子供とも100円
「壬申の乱」の分かり易いビデオは見る価値ありです。

入場券には「不破関庁」復元模型図が描かれています。

「不破の関」は軍事・警察の機能を兼備する重要な拠点でしたが、延暦八年(789年)七月、
「三関」は突如として停廃されました。
兵器・狼備(狼煙の設備)は国府(美濃国府)に運収され、諸建物は便郡(不破郡)に移築されてしまいました。

岐阜県教育委員会が昭和49年から五次にわたって実施した不破の関跡発掘調査によって
「不破関」の概要が明らかとなり、是を契機に昭和57年、不破関の一角に資料館が建設されました。

不破関
不破関は律令国家の非常に備えるために設置された。
関の最高責任者を関司(せきつかさ)といい、美濃国府に勤務する国司四等官が分番守固した。
関司の下には、美濃国司から差発された兵士が配され、また鼓吹(こすい)・軍器が常備されて、
軍事的機能を果たしていた。
このように、不破関を通行するためには、過所(かそ=通行証明書)
によって検判を受けなければならなかった。
このように、不破関は軍事・警察の機能をもち、
天皇の崩御をはじめ、大事件が発生するたびに
中央から固関使(こけんし)が派遣されて、不破関が閉じられた。
不破関の設置目的が、これまで東方から都へ侵入する勢力に備えるためであると説明されてきたが、
近時の調査によって、都での非常事態の発生が
東国へ波及することを阻止するものであった、と考えられるようになった。
(不破関資料館)

 

新旧中仙道道標

不破郡関ヶ原町松尾

北緯

35

21

21.3

東経

136

27

39.6

 
「左 旧中山道」          
「右 中山道 大谷吉隆之墓」

右の「中山道 大谷吉隆之墓」へ進むと「不破関資料館」があります。

碑の左の「旧中山道」の下り坂を70mほど下ると左側に「不破の関西城門跡」があります。

壬-13.西城門(にしきもん)
 
戸佐々(とささ)神社

不破郡関ヶ原町藤下    概算高度 119m

北緯

35

21

20.

東経

136

27

36.

地図中央辺り

不破関西城門と藤古川
不破関は藤古川を西限として利用し、左岸の河岸段丘上に主要施設が築造されていました。
川面と段丘との高度差は約十〜二十米の急な崖になっており、
またこ辺一帯は伊吹と養老・南宮山系に挟まれた狭隘名地で、
自然の要害を巧みに利用したものでした。
ここには大木戸という地名も残っており、「西城門」があったとされています。
(関ヶ原町)

 

 

10-4.藤古川
(藤下
とうげ橋)

不破郡関ケ原町松尾26 海抜 111

北緯

35

21

20.

東経

136

27

35.

「藤古川」
 この川は古くは関の藤川と称し、「壬申の乱」には川を挟んで東が「天武天皇軍」、西側には「弘文天皇軍」が陣し、
この地区の民は銘々の軍を支援したので、戦後東の松尾地区は「天武天皇」を祭って「井上神社」と号し、
川西の藤下、山中地区では「弘文天皇」を祭って氏神とし、現在に至っています。
(橋の中央にある説明文より)

画面中央奥に見えるのは「国道21号線」

     関の藤川(藤古川)
 この川は伊吹山麓に源を発し、関所の傍を流れているところから、関の藤川とよばれていました。
 壬申の乱(672)では、両軍がこの川を挟んでの開戦。更に関ヶ原合戦では、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、この辺りは軍事上要害の地でした。
 またこの川は古来より歌枕として、多くの歌人に知られ、数知れないほどの詩歌が詠まれたことが、世に知られています。                               (関ヶ原町)

藤古川の「藤下橋」を渡るとすぐに「若宮八幡神社」の道標があります。
道標に従い南へ150mほど入ると「弘文天皇」をお祭りした神社があります。

ここで関の藤川を渡ります

大谷吉隆の陣跡と墓への道は東海道本線横断が危険のため
安全な道の画像は常盤御前墓の地図にあります。

 

壬-14.藤下(とうげ)の若宮八幡神社

不破郡関ヶ原町藤下   概算高度 119m

北緯

35

21

20.

東経

136

29

34.

 

 

「藤下(とうげ)若宮八幡神社本殿」
本社の創建は定かでなく、「若宮八幡社ご縁記」によると、
元応十一年(1320)に「弘文天皇」を祭り、「応永九年」(1404)と
明応九年(1500)に社殿修理が見られます。

また明治十二年の修理の際の「棟札目録」では、
「天文二十二年」(1553)にも造営修理の記録がみられ、
本殿は檜皮葺の桃山式の極めて貴重な建造物です。
(関ヶ原町)

「若宮八幡神社道標」から西へ50mほど坂を上がると道標と「矢尻の井」(地蔵堂)があります。

 

壬-15.「矢尻の井」と  
  箭先(せんさき)地蔵堂

不破郡関ケ原町藤下 海抜 123

北緯

35

21

18.

東経

136

27

29.

地図の中央辺り

国道工事で枯れた泉
付近に二つの泉があり、「弘文天皇矢先の池」と「矢尻の池」と呼ばれていました。
「壬申の乱」の時に軍兵が小さな泉を大きく掘ったと言われています。

しかし国道工事の際、水脈を途切れさせ泉が枯れてしまいました。

矢尻の池(井)
関ケ原から今須に向かう中山道のうちでも、不破の関・藤川と続くこの辺りは、
「木曽名所図会」にも描かれ、歌枕となっていました。
この窪みは壬申の乱(672)のとき、水を求めて、大友皇子軍の兵士が矢尻で掘ったものと伝えられています。
長い年月を経た今では、その名残を僅かに留めているに過ぎません。
(関ケ原町)

箭先(せんさき=矢先)地蔵堂
明治11年(1878年)に坂を開削した時出土した地蔵と弘文天皇稜の傍にあった地蔵を合祀してあります。

      「大谷吉隆の墓」
 
今は別のルートです。(標識の矢印では行けません)
 まず「矢尻の池」の方へ進み国道21号線の歩道橋を渡り
中山道を100m程進み案内板があるので階段を登りJR東海道本線の踏切(以前はありませんでした)を渡り「若宮八幡宮」の横を通り、上の段に「大谷吉継の陣跡」があり、それから00mほど山中を歩くと「大谷吉継の墓」があります。
  (車の方は後ほど「13.平塚為広の碑」で説明します)

「大谷吉隆墓 七丁」
は昔の標識ですから
今は別のルートです。

この地蔵堂で道は二つに分かれていますが右が中山道です。

先ほどのふたつに分かれた道が、また一緒になる所に道標があります。

道端の標識の概算緯度経度

北緯

35

21

18.

東経

136

27

26.

概算高度  121m

新しい道路工事により碑の位置や経路が変わります

三本杉登り口の概算緯度経度

北緯

35

21

15.

東経

136

27

25.

概算高度  124m

標識板に沿って細い道を進むと階段があるのでそれを登ります。
30m程登ると三本杉があります。

 

壬-16.自害峰(じがいみね)三本杉
  と弘文天皇御陵候補地

不破郡関ケ原町藤下 海抜 126

北緯

35

21

18.

東経

136

27

30.

位置は地図の中央下中間あたり

町天然記念物 自害峰の三本杉
壬申の乱(672)は天智天皇の子 大友皇子と同天皇の実弟大海人皇子との間で起きた皇位継承争いでした。
その戦は、この辺りから始まり、その後近江の瀬田で大海人軍は大友軍を破ったのです。
ここは自害された大友皇子の頭(かしら)が葬られていると伝えられ、弘文天皇御陵候補地です。
三本杉がそのしるしとなっています。
(関ケ原町)

町天然記念物 自害峰の三本杉
壬申の乱672)は天智天皇の子 大友皇子と同天皇の実弟大海人皇子との
間で起きた皇位継承争いでした。
その時の戦(いくさ)はこの辺りから始まり、
その後近江の瀬田で大海人軍は大友軍を破ったのです。
ここは自害された大友皇子の頭(かしら)が葬られていると伝えられ、
弘文天皇御陵候補地です。
三本杉がそのしるしとなっています。
(関ケ原町)

 

黒血川
先ほどの不破関守跡の「藤古川(関の藤川)」と画面先に見える名神高速道路の辺りで
合流して藤古川となります。

麓へ戻り西へ100mほど進みます

国道21号横断

概算高度 127m

北緯

35

21

19.

東経

136

27

21.

 

国道21号線を渡って180m程進むと左手(北側)に幟と階段があります。

 

08-1. 西.大谷吉継陣跡、中山道登り口

不破郡関ケ原町山中宮上 海抜 

北緯

35

21

東経

136

27

この階段から「大谷吉継の陣址」と「墓」へ行けますが
「壬申の乱」関係の史跡には関係ないので階段前を通り過ぎ西へ進みます。

階段の両側に「宮上 大谷吉継陣址」碑と「若宮八幡神社」碑があります。
階段の先はJR東海道本線の線路で踏切があります。
(以前は踏切がなく、走って渡るか、これより西の「黒血川」沿いに北へ
JR東海道本線の下をくくり、薄暗い気味の悪い道を歩きました。)

とりあえず階段の先まで画像で案内します。

「若宮八幡宮」右(東)に「宮上 大谷吉隆陣地 四十間」の古いの碑があり
80mほど登ると陣址へ出ます。

中山道へ戻ります。

中山道を更に西へ100m程進むと「高札場跡」の案内板があります。

17.間の宿高札場跡

不破郡関ヶ原町山中    概算高度 129m

北緯

35

21

19.

東経

136

27

04.

中山道の北側にあります。

「中山道 間の宿山中」(高札場跡)は地図の中央辺り

高札場跡
当地は江戸日本橋から五十八番目の関ケ原宿と、五十九番目の今須宿の中間に位置し、
休息施設の立場茶屋が設けられていたことなどから、俗に「間の宿」と呼んでいた。
かって当山中村は江戸時代を通し、旗本竹中氏の知行地で、
ここ千束(せんぞく)橋詰には高札場が設置されていた。
徳川幕府の庶民統治上の禁制品、法度、掟書等がかかげられ、
人だかりがよく見られる場所であった。
当時は竹囲いをめぐらし、石垣や土盛りを施すなど管理は厳重で、
責任者には村役人を命じ、周囲の清掃はじめ、
火災時には狼藉者の取り締まりにも当らせていたのである。
(関ケ原町)

「間の宿山中」碑から更に西へ80m程進むと「玉地区」へ向かう「東海自然歩道」口へ着きますが
先に中山道西の「鶯の滝」と「常磐御前の墓」まで行き再びここまで戻ります。

18.黒血川(口)

不破郡関ヶ原町山中

北緯

35

21

東経

136

27

黒血川
壬申の乱(672)で、ここ山中の地では両軍初の衝突が起きています。
七月初め大友軍は精兵を放って、玉倉部邑(たまくらべのむら=関ケ原町玉)を経て
大海人軍の側面を衝く急襲戦法に出てきました。
しかし、大海人はこれを撃退、その後この不破道を通って
近江へと出撃していったのです。
この激戦で、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、
この名が付き、その時の凄まじい様子を今に伝えています。
この川は、青野ヶ原や関ケ原戦い等、古来軍事上しばしば利用されてきました。
(関ケ原町)

「玉地区」への道へ曲がらず西へ50mほど進むと北側に地蔵堂があります。

地蔵堂の向かいから「鶯の滝」の音が聞こえてきます。

19.鶯の滝

不破郡関ヶ原町山中    概算高度 123m

北緯

35

21

19.

東経

136

27

03.

鶯の滝
中世(鎌倉・室町期)の山中村は旅人も泊まる宿駅として栄えていました。
近世(江戸期)では、関ケ原・今須宿の間(あい)の村として、人足が駕籠や馬を止めて休息した
立場(たてば)や酒屋・餅菓子・果物屋・古手屋が軒を連ね、活気を帯びていたのです。
ところで、この滝は、今須峠を上り下りする旅人の心を癒やしてくれる恰好の場所でした。
滝の高さは約メートル。水量は豊かで冷気立ち込め年中鶯の鳴く、
平坦地の滝として、街道の名所になっていました。
(関ケ原町)

 

「17.間の宿山中」碑から100mほど西へ進むと「鶯の滝」があります。

さらに西へ進みJR東海道新幹線の下を通り80mほどの右側に「常磐御前の墓」の標識があります。

 

20.常盤御前

不破郡関ヶ原町山中    概算高度 133m

北緯

35

21

14.

東経

136

26

55.

常磐御前の墓
都一の美女と言われ、十六歳で義朝(よしとも)の愛妾となった常磐御前。
義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常磐は今若、乙若、牛若の三児と別れ
一時は清盛の愛妾にもなります。
伝説では東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千種と後を追って来た常磐は、
賊に襲われ息を引き取ります。
哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられています。
(関ケ原町)
朝長・牛若が難を逃れて休んだ美濃青墓の「よしたけあん」跡「照手姫水汲み伝説」も参照して下さい

芭蕉と化月坊の句碑
寛政六年(1794)二月垂井町岩手生まれの化月坊は、旗本竹中氏の家臣であった。
文武両道にすぐれ、晩年は俳諧の道に精進した。
化月坊は美濃派再興のため、芭蕉ゆかりの各地に、芭蕉の句碑を建てた。
文久二年(1862)、ここ山中集落常磐塚の傍らにも芭蕉翁の句碑を建てたが、
自作の句も碑裏に刻んだいる。(以下略)
(関ケ原町)

この他、壬申の乱で「大海人皇子」の美濃国多(おおい=大井)領の荘官であった
「大炊(おおい)家之墓」は大垣市青墓の円興寺山の中腹にあります。

「大炊家之墓」源朝長之墓の近くにあり一段低い場所にあります。
(詳しくは「大垣城周辺の城・砦・陣屋址」の「22.円興寺城址」
または、「美濃中山道後編」「源朝長の墓」の巻を参照して下さい)

20-1.大炊家之墓

大垣市青墓町

大炊家の墓
大炊(おおい)氏は、「壬申(じんしん)の乱」で活躍した多臣品治
(おおのおみはむじ)の孫で、大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)
の地である美濃国の多(おおい)地方(後世東大寺領になる頃には大井荘とよばれた)の荘官(しょうかん)でしたが、この青墓の地に移り住み、
姓を「大炊」と改めのが始まりであると伝えたれます。

平安後期には、青墓の長者「大炊兼遠」(1105〜1161年)の
娘「延寿」は源義朝の側室となり息子達も源義朝や義平に仕えるなど
源氏の家臣であり、外戚でもありました。

先ほどの18黒血川口」まで戻り
JR東海道本線の下のトンネルをくぐり、北へ進み「玉倉部」の激戦地へ向かいます。

18.黒血川(口)

不破郡関ヶ原町山中

北緯

35

21

東経

136

27

黒血川
壬申の乱(672)で、ここ山中の地では両軍初の衝突が起きています。
七月初め大友軍は精兵を放って、玉倉部邑(たまくらべのむら=関ケ原町玉)を経て
大海人軍の側面を衝く急襲戦法に出てきました。
しかし、大海人はこれを撃退、その後この不破道を通って
近江へと出撃していったのです。
この激戦で、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、
この名が付き、その時の凄まじい様子を今に伝えています。
この川は、青野ヶ原や関ケ原戦い等、古来軍事上しばしば利用されてきました。
(関ケ原町)

17.間の宿山中碑から70mほど西に玉地区へ抜ける「東海自然歩道」口があります。

途中東への三叉路へ来ます。
この道を東へ進むと「大谷吉継陣址」と「大谷吉継の墓」いけます。

このまま北の「玉倉部地区」へ向かいます。

大友軍が大海人軍を急襲した道
途中に「大谷吉継陣址」や墓へのルートがあります。(ここからは徒歩です。車は駐車して置けません)

更に北(玉倉部地区)へ進みます。途中道が狭いので車と出会うと大変ですが何とかできます。

道の脇を「黒血川」が流れています。
道は所々幅の広い部分があるので万一対向車が来ても何とかなります。

 

転編、玉倉部邑 周辺

壬申の乱「転編」は「玉倉邑」(玉倉部地区)です。

ここは壬申の乱の激戦地で「黒血川」の源です。
しかし、古代の激戦の地も今は静かな山間の郷です。

壬申の乱「玉倉部」地区の名所旧跡図

ここには壬申の乱より古く日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折
伊吹山の「荒神」を退治され休息された「腰掛石」や荒神の降らせる大氷雨により
高熱を発せられた疫を冷まされた「玉倉部清水」があります。

国道365号「玉」信号を西へ曲がり、1.5km程進むと北側に
旧陸軍火薬庫の歩哨塔脇に「日本武尊腰掛石 80m 2分の標識kが見えます。

入ると道が見えますが、この道らしきものの右の草原を進みます。

何故かトンネルがあります。
(旧陸軍も火薬庫の土塁を作りましたが「日本武尊旧跡」を無視できずトンネルを作ったと思われます)

トンネルをくぐり左へ
西側奥に旧跡が見えます。

 

壬-21.日本武尊腰掛石

不破郡関ヶ原町玉   概算高度 172m

北緯

35

21

55.

東経

136

26

06.

日本武尊(やまとかけるのみこと)の腰掛台
今から二千年ばかり前、日本武尊が東夷を御征伐になり一旦尾張の国造の家までお帰りになると、
又伊吹山に荒神が居るとお聞きになり、これおも退治しようとお出かけになったが、
山の途中で荒神が氷雨を降らせたので、その毒気に当り、
酒に酔えるがごとくなって山を下られたが、幸い清水(壬-23玉倉部の清水)が湧き出ていたから、
それをすくって飲まれ、休憩されたら回復したので杖にすがって伊勢方面へ立ち去られた。
その時 尊が腰かけられた腰掛岩というものがここにあるものである。
(関ケ原観光協会)

壬-21「日本武尊腰掛岩」は中央左

日本武尊(やまとかけるのみこと)の腰掛台

荒神が居ると言われた伊吹山(1377m

伊吹山
標高が1,377mで、全山が石灰石からなっています。
古くから名山として親しまれ、日本武尊の他 多くの伝説を秘めています。
伊吹山への登山道、関ケ原からドライブウェイで頂上まで行けます。
(関ケ原町)

国道365号を更に西へ400m程進むと「関ケ原鍾乳洞入口」の看板があります

関ケ原鍾乳洞」案内板は左下部あたり

この看板に従って北(右)折します。

北折して300m程の広い場所に出ます。
ここがかって旧陸軍の火薬庫があった場所です。

22.旧陸軍火薬庫跡

不破郡関ヶ原町玉

北緯

35

21

東経

136

27

歩哨立場
知多半島にあった「帝国火薬工業」で製造された火薬を旧陸軍が保管するために
選んだ絶好の場所だったのでしょう。

22「旧陸軍火薬庫跡」関ケ原鍾乳洞」案内板の上あたり

旧陸軍火薬庫跡
大正初期より昭和20年までの30年間、この区域一帯は火薬庫として使用されていました。
周囲6キロ、面積は約270ヘクタールあり、東洋一の規模だったと言われています。
ここに火薬庫が作られたのは、交通の便がよく、点在する小高い丘は洞窟を築く上で都合がよいなど、
立地条件に恵まれていたからです。
(関ケ原町)

あちらこちらに遺構が点在します。

更に北へ150m程進むと「玉倉部の清水」があります。

壬-23.玉倉部清水
(関ケ原鍾乳洞)

不破郡関ヶ原町玉   概算高度 176m

北緯

35

22

04.

東経

136

25

45.

町史跡 玉倉部(たまくらべ)の清水
(日本武尊居寝清水)

その昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)が伊吹山の荒神のことをお聞きになりました。
そこでそれを退治しようと、山にお入りになりました。
ところが荒神の降らせる大氷雨(おおひさめ)のなかで、
毒気にあてられ、高熱に病(や)まされて下山されたのです。
幸いこの清水を飲まれたところ、たちまち回復されました。(古事記)
(関ケ原町)

関ケ原鍾乳洞は画面鳥居の横に入口があります。
(入場料¥700)

壬-23「玉倉部の清水」は中央左端あたり

日本武尊奮跡碑

清水の水が以前より少なくなったように思います。

日本武尊の伊吹山荒神伝説
その2(滋賀県版)情報

 「居醒の清水」

この伊吹山荒神伝説が隣の滋賀県にもあるので紹介します。
滋賀県米原市醒井JR東海道本線醒ケ井駅から徒歩10分の加茂神社に湧き出る名水があり、

 「居醒(いさめ)の清水」と呼ばれ、「古事記」、「日本書紀」にも記載されている
日本武尊が伊吹山の荒ぶる神の毒気にあたったとき、
その高熱を源流の水で癒したという「居醒清水(いさめのしみず)」、
「居醒の泉」と記載されている。
とありますので参考にしてください。

「玉倉部の清水」から県道229号を東へ戻り途中交差点から「広域農道」を北へ1.5km
激戦の地「玉倉部大橋」へ

壬-25.玉倉部大橋

不破郡関ヶ原町玉

北緯

35

21

東経

136

27

玉倉部大橋
玉倉部地区から広域農道で国道365号に繋がります
今は藤古川の上を大きな橋で渡ることが出来ます。

壬-25「玉倉部大橋」は中央上部あたり

大友軍はこの玉倉部から不破の藤下へ奇襲を掛けましたが激戦の末、
苦戦し押し戻され近江の瀬田へ逃げ帰ることになった場所です。

玉倉部大橋から国道365号を東へ250mほどの北側の山に「玉神社」があります。

壬-26.玉 神 社

不破郡関ヶ原町玉   概算高度 170m

北緯

35

22

28.

東経

136

26

37.

立派な神社ですが縁起碑などはありません
しかし、この地に名を残す神社ですから何か案内版などがないか探しましたが見当たりませんでした。

 

壬-26「玉神社」は中央上部あたり

国道側の下の階段は普通ですが、その上の階段は
半端でない急勾配でした。

 

 

 

 

 

 

十一面観音堂の向かいにこの地方で有名な
水屋(高い石垣のの上にある避難小屋)
があります。

このあたりのお金持ちの民家
 この辺りから下流にかけては、度重なる洪水に悩まされ屋敷を高い石垣の上に作り難を逃れることにしました。
 お金持ちほど高く積み上げ増したが、現代の車社会では何かと苦労が多いようです。
水屋
 お金のない家は離れなど一部を高くして、そこに炊事場、座敷、貴重品を置き軒下には舟を吊し万一に備えました。

墨俣宿まで戻り長良川の堤防まで上ります。
墨俣の渡し跡は定かではありませんが墨俣宿と上宿の中間辺りと思われます。

美2-38 墨俣の渡し跡

安八郡墨俣町上宿

北緯

35

21

21.2

東経

136

41

22.7

渡し跡は洪水や河川改修のため、それらしきものは何もありません。
長良川を渡って羽島市へ入ります

美2-39 長良川渡船

 

北緯

35

21

19.6

東経

136

41

26.4

渡しの跡あたりの長良川です。

街道コラム

 

 

再び美濃路へ戻ります。

橋の東に東小熊地蔵堂があります。

東小熊地蔵

羽島市小熊町東小熊

北緯

35

20

52.6

東経

136

42

42.1

 

親鸞聖人御旧跡碑

羽島市足近町直道

北緯

35

20

49.6

東経

136

43

00.1

中央の桜の陰に碑はあります

縦是東五丁の文字

 

阿遅加神社

羽島市足近町直道

北緯

35

20

47.1

東経

136

43

16.5

 

足近北宿の
道標と地蔵堂

羽島市足近町南宿

北緯

35

21

07.6

東経

136

43

57.4

 

右 寿のまた道(墨俣道)
左 竹がはな道(竹鼻道)

 
道標
 「西方寺」の前を通り境川の堤防に上がると道標があります。
位置が変わったのか「左たけはな道、右すのまた道」と左右が反対です。
追分け地蔵
 道標の反対側には今にも壊れそうな小屋に中に古びたお地蔵様が二体並んでお祀りしたありました。

 

足近直道の
地蔵堂

羽島市正木町須賀

北緯

35

19

56.8

東経

136

43

48.8

   
   

 

  坂井の道標と辻地蔵
 別の道から堤防に上がった所に西方寺への道標が立ち、脇に「右、笠松、西方寺」「すぐ墨俣、大垣道」と刻まれた辻地蔵二体があります。
またお地蔵様
 先のお地蔵様より立派なお堂の中に安置されています。
 脇に大きな木が茂っています。

堤防を更に西に進み西小熊まで来ると、太神宮と秋葉様があり、まもなく「小熊の渡し跡」へ出ます。

 「小熊の渡し」蹟は河川改修などで昔の面影はありません。
ここから長良川を渡ると「墨俣宿」へ入り「美濃路」は更に進んで「垂井宿」へと向かいます。
また、そこから美濃路と言うよりも、鎌倉時代の官道「鎌倉街道」として保存されています。
詳しくは「中山道探訪14-3”鎌倉街道と墨俣一夜城”」で紹介します。

 

 

親鸞上人の旧跡西方寺

羽島市足近町直道

北緯

35

20

52.8

東経

136

43

38.9

親鸞の旧跡西方寺
 羽島で最古の寺。
 もと太子堂でしたが後に親鸞上人に教えを受け浄土真宗に改めました。
 多数の寺宝があります。

阿遅加(アジカ=足近)神社
 式内社で祭神は日本武尊。近代は八剣宮と言われています。
 社内に雨石があり、雨乞いに参拝されます。

 

足近町
消えた美濃路

(羽島市足近町)

北緯

35

20

39.3

東経

136

43

09.5

調査中