美濃の鎌倉街道
(再編集中)
対岸へは下流(約1020m)に架かる揖斐大橋を渡ります。
美濃路ー05/15 |
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美濃路全区間を15区間に分けてご案内します。(本図は5区間目です) |
佐渡の渡し(揖斐川)を西結へ渡ります
美2-12 佐渡の渡し場跡(西結) 安八郡墨俣町西結 |
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西結の堤防上には渡し場跡を示す社がありました。 |
堤防を下りると結神社があります。
美2-13 結神社 安八郡墨俣町西結 |
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鎌倉街道沿いに続く長い参道 |
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照手姫が結ばれた「結神社」 |
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結神社縁起 この地は多くの大宮人、名士、高僧の祈願をこめられた古歌が残っております。 永享の頃(1430)照手姫は結大明神へ、七日間祈願し、小栗判官と再会し守り本尊一寸八分の黄金をこの社に納められました。(この守り本尊が町屋観音の本尊と伝えられています) 天正三年(1575)織田信長が結大明神へ、七日間祈願し、朱印状を下したと伝えられております。 文政九年(1826)越前の国(福井県)鯖江藩主 間部氏は、旅の途中 結大明神の下馬先をけがしたことを深く恥じ御手洗水鉢(みたらしばち)を寄進しました。 明冶36年の揖斐川大改修により、旧境内は、河川敷となり、現在地に遷座申し上げました。 (現地説明版より) |
安八町指定文化財 一、彫刻・神像群(本殿内) 大小十七体の神像群で、いずれも木彫である。この神像は御神体ではなく神社に奉納された 測神ではあるが年代の古いと思われるものもあり結神社の歴史を語る貴重なものである。 一、彫刻石造狛犬(一対)本殿内 江戸時代前期三百十七年前寛文五年 寄進 花村木左衛門 |
正確な位置は不明です。
美2-14 結城址 岐阜県安八郡安八町西結 |
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結城址と付近の城址高田二郎兵衛の館が結神社から南西700mの地にありました。 |
結城の歴史 |
結神社から80mほど東に町屋観音があります。
美2-15 町屋観音 岐阜県安八郡安八町西結町屋 |
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歴史の道 鎌倉街道 今からおよそ八百年くらい前のことです。 源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、京都と鎌倉を結ぶ道路が整備されました。 京都から東山道を通って美濃の国に入り、不破郡の青墓宿から安八町町屋・入方・墨俣町二ツ木を通り上宿で長良川を渡って羽島市を通り尾張の国(愛知県)の黒田・下津を経て東海道へ入り、鎌倉へ通じることから鎌倉街道(美濃路)とも呼ばれ、当時は最も大切な道路であり史跡「鎌倉街道」「一里塚跡」が残る道です。 この地を待合(町屋)という由来 照手姫ゆかりの町屋観音堂 この十一面観音は聖徳太子の頃の栴檀の木で彫刻された観音で、頭上の一寸八分(約6a)の黄金仏は照手姫の守本尊であります。 |
更に東へ150mほど進むと右側に日吉神社があります
美2-16 日吉神社 岐阜県安八郡安八町東結 |
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詳しい由来は不明です |
更に東へ80mほどの左側に「米の宮之跡」
美2-17 米(よね)の宮之跡 岐阜県安八郡安八町東結 |
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「米の宮之跡」(よねのみや) 「当村往還の傍に昔よりあり、ヨネの宮といい後に転じて米之宮と言う、云々」と説明があります。 |
「米の宮之跡」から780mほど東へ進むと堤防から下りる道があり、その道を下ります。
堤防下に東結ぶの一里塚跡碑と地蔵堂があります。
美2-18 東結の一里塚跡 岐阜県安八郡墨俣町先入方 |
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安八町史跡 美濃路一里塚跡 慶長九年(1604)初代将軍徳川家康は、江戸日本橋を起点として主要街道の一里毎に塚を築きました。 後に脇街道にも及ぼし、塚の大きさは五間四方(9b四方)が基準で、塚の上には榎(えのき)や松などを植えて旅人に便宜を与えました。 昔、町屋から先入方に至る約1,300mの間は、立派な松並木でありました。 松は「いがみしゃしゃくれ」といって曲がりくねっていました。 三又のところに「左大垣道」之道しるべが建っていて、道の両側に一里塚がありました。 (安八町教育委員会) 地蔵堂の台座に「右 墨股 左 大垣」と刻まれ、脇には「美濃路 一里塚跡」の石碑があり、堤上の南北に一里塚がありました。 (一宮市尾西歴史民俗資料館) |
東結之一里塚跡から堤防上へ戻り更に東へ1kmほど進むと堤防下へ下りる道があります。
堤防下へ下ります。墨俣宿へ入る西口です。
美2-19 |
本陣跡の堤防道路を南へ進むと「源平墨俣川の合戦」跡と源義円(みなもとぎえん)の墓などがあります。
本陣跡〜南へ1kmほどの地点に源義円をお祭りする「義円地蔵堂」などがある義円公園があります。
美2-33 義円公園 安八郡墨俣町下宿 |
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源平墨俣川の合戦 養和元年(1181)長良川をはさんで源平の大激戦が展開された。 世にいう源平墨俣川の合戦である。 同年二月四日平清盛病死す。 東国源氏は勢を得て、京へ攻め上る。 これを迎え討つため、平重衡を総大将として維盛・通盛・忠度・知度・盛綱・盛久などの武将七千余騎杭瀬川を渡り、右岸の墨俣側(上下宿)に陣す。 一方源氏の将行家(新宮十郎蔵人)は千余騎を率いて左岸の羽島側に着陣す。 源頼朝は応援のため弟の源義圓をつけ、西上させたが合流せず、2町を隔てて軍を整えた。 義円は行家に先陣されては兄頼朝に合す顔がないと考え、唯一人馬に乗り、敵陣側の西岸にひそみ、夜明けとともに「義圓は今日の大将なり」と名乗って先陣のさきがけをしようと、白む夜明けを待っていたところ、見回り夜警兵に見とがめられ、「兵衛佐頼朝の弟で卿の公義円という者だ」というが早いか勇敢に戦い、武運つたなく、力尽き平盛綱に討たれた。 源氏は戦利あらず、尾張源氏の泉太郎重光兄弟 討死し、行家の子太郎光家兄弟は平忠度に捕らえられた。 敗れた源氏は退き、矢矧(やはぎ)川の東岸まで退き東国源氏の大兵来ると宣伝し勢を盛りかえして遂に平家を亡ぼすことになる。 源義圓は頼朝の異腹の弟で義朝(源頼朝の父)の妾常盤御前の子義経と同腹の兄にあたる。 幼名を乙若といい、天王寺に預けられていた。 兄の挙兵を聞き、比叡山の僧兵のごとく坊主頭を頭巾に包み、黒染の衣を着て鎌倉へ駆けつけたと思われる。 墨俣川の合戦で悲運の生涯を閉じた。 二十五歳である。 (源平盛衰記・平家物語・吾妻鑑より) 里人は義円地蔵を刻み、堂を建て、毎年三月十日に供養を続けている。 これより百五十米西に墓がある。 昭和五十六年三月十日に八百年祭が行なわれた。 (安八郡墨俣町) この戦いで敗北した源氏軍は東へ敗走します。 |
源義圓(みなもとのぎえん)とは?
源氏の系図(源義家から四代までの抜粋) |
「旅と犬と史跡巡り」(23pro.tok2.com/freehand2/rekishi/keizu-genji.htmを参考にさせていただきました。 |
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治承、寿永の乱 治承、寿永の乱(じしょう、じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180)から元暦2年(1185)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。 後白河天皇の皇子である以仁王による挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする六波羅政権ともよばれる平氏政権に対する反乱が起こる。 最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。 そうした中の同年閏2月に、平清盛が熱病で没して平氏政権は強力な指導者を失う。 しかし、直後の3月、平氏政権は再び東海道へ追討軍を派遣し、尾張墨俣川で関東政権軍と会戦して平氏軍が勝利を収めた(墨俣川の戦い)。 この結果、源氏軍による東海道方面の進撃は一時中断することとなる。 しかし平家はこの年から活発化した北陸の反平家勢力の蜂起は見過ごすことができず、8月に平通盛、経正を将とする軍を派遣する。 しかし、通盛と経正の連携が上手くいかない上に、兵糧不足になやまされた平家は北陸地方の反乱を鎮圧することができずに北陸から撤収する。 この年、京都では「養和」と改元されたが、頼朝ら反平氏勢力はこれを認めずに治承の元号を用いた。 この年から翌年にかけて養和の飢饉という大飢饉が起きたことに加え、平氏政権は安徳天皇の大嘗祭の実施(11月24日)を優先し、源氏軍も頼朝が未だに平治の乱の赦免を受けておらず、上洛のための政治的、軍事的条件を整える時間が必要であった。 九条兼実の日記『玉葉』にはこの年の8月1日条にて、先頃後白河法皇の元に頼朝の密使が送られたことを記している。 |
この戦いで源氏側は大敗を喫し、尾張源氏の泉太郎重光兄弟ら多くの武将が討ち死にしたり、捕らえられたり、溺死したりする者六百九十余人に及びました。 |
源義円(圓)供養塔 |
史跡 源平墨俣川古戦場碑 |
義円地蔵堂 |
義円公園の西150mほどに源義円の墓があります。
美2-34 源義円(ぎえん)の墓 安八郡墨俣町下宿 |
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柿の実に飾られた墓の標識 |
田んばの中に今も残る墓石 |
義円公園の北100mほどに鎌倉街道が残っています。目印は西来寺です。
美2-35 西来寺 安八郡墨俣町下宿 |
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西来寺の西に不破神社があり、その境内に鎌倉街道碑があります。
壬申の乱伝説がある 安八郡墨俣町下宿 |
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史跡・伝説案内 大海人皇子と不破明神 西暦671年天智天皇崩す。 先に吉野に難を逃れていた東宮である弟の大海人皇子(天武天皇)と太政大臣である御子の大友皇子(弘文天皇)の間に皇位継承の争いが起きた。 壬申の乱である。 中央集権国家成立期における最大の悲劇である。 大海人皇子は大津宮を去り、吉野に逃れたが、更に身の危険を感じ伊賀、鈴鹿より東宮の領地である美濃に逃げる。 従うものは鸕野讃良皇女(うののさらのひめこ)をはじめ二十人ばかり。 ここで敵に襲われたらもう助からない。味方のいる美濃までは何とか逃れたいと強行軍が続く。 この後、安八磨郡の湯沐令多臣品冶に告げて兵を集め、不破道より近江に入り、大友皇子を討ち滅ぼし、飛鳥浄御原に即位された。 宇治捨遺物語に『大海人皇子墨俣に渡にて難を逃れたまう』と記してある。 その一節を示すと『この国の州俣のわたしに舟もなく立っておられた。女が大きな湯舟で布を入れて洗っているとのを見て、「何とかして渡って行きたいが」といわれると、女は「一昨日大友の御使といふものが来て、渡舟場の舟をみな隠して行ったので、ここを渡っても多くの渡船場を通過することはできない。こうして話をしているおるうちに今敵軍が攻めて来るでしょう。どうして逃れられますか」という、「さてどうしたらよいか」と申されると、その女がいうのは「あなたを拝見するとただ人ではなく貴い人のようです。ではこうして下さい」と言って、湯舟をうつぶせにして、その下に伏せ奉りて、上に布を多く置いて、水汲みかけて洗っていた。 しばらくして兵 五百人ばかり来て、女に問うて言う。「ここより人が渡って行ったか」といえば、女は「貴い人が軍兵千人ばかり率いてこられた。今頃は信濃の国に入っておられるでしょう。素晴らしい龍のような馬に乗って飛ぶように見えた。この小勢で追付いても皆殺されてしまうでしょう。これから帰って軍を多く備えて追うとよいでしょう」というと、本当にそうだ思って大友の皇子の兵は引き返した。 その後 大海人皇子は女に仰せられるには「この辺で軍勢を集めたいが出来ないだろうか」と問われると、女はしりまどいて、その国のむねとあるものどもを集め語り合うと二、三千人の兵が出来た。 それを引具して大友皇子を近江国大津に追い討ち滅ぼされた。 このすのまたの女は不破明神の化身であると伝えられている。』 (不破神社説明板より) |
大海人皇子と鸕野讃良皇女と薬師寺 奈良薬師寺は病気の皇后(鸕野讃良皇女、のちの持統天皇)のために、天武天皇(大海人皇子)が建てようとしたお寺である。それは奈良に都ができる三十年前のことだった。 薬師寺を建てはじめたころ、幸いに皇后の病気は平癒、ところが今度は天武天皇が病気になり、遂に亡くなってしまう。 持統天皇は、亡くなった天武天皇を強く思慕しつつ、遺志を継いで薬師寺を完成させた。 薬師寺は、初めは藤原京(奈良県橿原市)に建てられたが、遷都により、平城京に移ってきた。 東寺は三重塔。しかし屋根の下にそれぞれ裳階(もこし)が付くので、一見すると六重塔にみえる。大きな屋根の下に小さな裳階。 度重なる兵火にかかり当時から残るのは東塔(手前)のみです。 |
「古道」の始まり |
不破神社の西隣に十一面観音堂があります
美2-37
鎌倉街道と 安八郡墨俣町下宿 |
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鎌倉街道 |
昔は観音堂前に鎌倉街道標識が |
鎌倉街道 長良川畔の「墨俣町」から揖斐川畔の「町屋」までに鎌倉街道が残っています。 鎌倉街道は鎌倉時代、源頼朝が「鎌倉幕府」を開いた時に、鎌倉から京都まで整備した「官道」で、さまざまな文化の行き交った道として歴史的にも貴重な街道です。 街道は墨俣「上宿」から |
「壬申の乱」とは 関ヶ原合戦より以前に、古代日本を二分下天下分け目の戦いが「壬申の乱」です。 前兆 時の天皇「天智天皇」は皇位継承者を皇太弟(こうたいし=天皇の弟)の大海人皇子(おおあまのおうじ)に決めていました。 しかし、しばらくして実子の大友皇子(おおとものおうじ)に皇位を譲りたくなり、671年1月5日に新しいポスト「太政大臣」(だじょうだいじん)を作り大友皇子を任命しました。 それ以降、 大海人皇子を政権から遠ざけようと、いろいろ手を打ちました。 しかし、間もなく天智天皇は病床に伏す身となり、枕元に大海人皇子を呼びあとを託しましたが、大海人皇子は”陰謀”を感じ、これを固辞し出家し、妻(後の持統天皇=じとうてんのう)、子とともに吉野に隠棲し皇位への野心のないことを公に示しました。 下地 天智天皇は皇極天皇、中大皇子、中臣鎌足らと謀り、蘇我蝦夷・入鹿父子を殺害し大化改新(645年)を断行し叔父の軽皇子を天皇・孝徳天皇とし、自らは皇太子として政治の実験を握り天皇制の確立とした政治改革を推進し、途中反対派の古人大皇子と有馬皇子とを殺害し、後に自らが天皇になリました。 乱勃発 671年12月天智天皇が没し、政情不安の中、身の危険を感じた大海人皇子は吉野を脱出し、自分の領土の美濃へ昼夜兼行で伊賀・伊勢を回り美濃国不破(関ヶ原)まで急いだ。 ここに行宮(ぎょうぐう=本陣)を置き、集めた兵を2軍に分け、機先を制せられた大友皇子軍を攻め、瀬田川まで追いつめ、大津京を陥落させました。 自害峰と桃配山 大友皇子は長等山において自害され、その御首級は、不破の行宮(本陣)に運ばれ首実検の後、葬られ、自害峰として現在も伝えられています。(中山道・不破の関・常盤御前墓の巻に詳細あり) また、徳川家康が関ヶ原合戦の時、最初に陣を張った「桃配山」の呼称はが「壬申の乱」の時に この地で桃を配って兵を激励したという言い伝えから来ているそうです。 家康もこの、故事にあやかって、見通しの悪いこの「桃配山」に陣を置いたのかも知れません。(中山道関ヶ原宿に詳細あり) 律令体制整備 「壬申の乱」に勝利し、実力で皇位に就いた大海人皇子は「天武天皇」となり天皇の神格化・律令体制の整備を推し進めました。 |
関ヶ原の手前「長良川西河畔(大垣市墨俣町上宿)に壬申の乱の序章と言える伝説があります。
序、 編 |
序編は現大垣市墨俣町の不破神社から話は進みます。
鎌倉街道沿いの不破神社縁起説明板があります。
壬-01.洲俣不破神社 大垣市墨俣町下宿(しもじゅく) |
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兵を起こした不破神社
吉野へ身の危険を感じ、逃れていた大海人皇子が
美濃へ逃れ兵を起こした場所不破神社
不破神社には大きな史跡・伝説案内板が境内公民館わきにあります。 大海人皇子と不破明神 ”この国の洲俣のわたしに舟もなく立っておられた。 「さてどうしたらよいか」と申されると、その女がいうには しばらくして兵共、五百人ばかり来て、女に問うて言う。 その後 大海人皇子は女に仰せられるには このすのまたの女は不破明神の化身でると伝えられている。 (不破神社説明板より) |
壬申の乱伝説のある「不破神社」は国道23号「墨俣東」信号から南進した先にあります。 |
不破神社 |
大垣市墨俣は秀吉の「一夜城」(墨俣一夜城参照)で有名ですが、 |
蛇足(不破神社の向かいには水屋があります)
水屋とは |
不破神社の前は「鎌倉街道」です。
鎌倉街道碑 |
この他この近くには「源義円(ぎえん=源義朝の九男)の墓」もあります。
(源義円は義経の華々しい戦いの陰に隠れ、頼朝から疎まれていたので、
この地の長良川畔で平家軍と対峙した時、手柄を立てようと単身、
闇に紛れて対岸に渡り身をひそめていた所を夜明け前に敵の見回りに発見され簡単に討たれて果てました。)
詳しくは「美濃路七宿「美濃路ー2」の「源義円の墓」と「源義円の公園」を参照して下さい。
序編(続き)、美濃 赤坂 編 |
壬申の乱の大海人皇子 大垣市赤坂町字勝山 |
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大垣市赤坂の岡山の山頂に
「弘文天皇壬申難古跡」碑があります。
赤坂岡山の「弘文天皇壬申難古跡」碑 大垣市赤坂町岡山山頂 |
「弘文天皇壬申難古跡」碑 |
壬申の乱大海人皇子「弘文天皇壬申難古跡」碑 |
「弘文天皇壬申難古跡」 柵内には大友皇子の慰霊のために建てられた宝篋印塔の一部が見えます。 |
「弘文天皇壬申難古跡」碑の近くに
「史跡 関ケ原合戦岡山本陣址」碑もあります
史跡 関ヶ原岡山陣跡 この山は、海抜53メートルの立稜で慶長五年(1600年) |
壬申の乱の大海人皇子 |
「安楽寺」(創建:593年)に大海人皇子は壬申の乱(672年)に際し |
壬申の乱の大海人皇子 大垣市赤坂町 |
壬申の乱の折、矢傷を負った「大海人皇子」が矢の根川の水で傷口を洗ったところ、 |
次は関ケ原町野上・松尾へ史実は移ります。
起編、不破郡 野上 編 |
第二部は古代の重要な場所で「東山道」に置かれた「三関」の一つ「不破関」があった不破郡地内です。
関ケ原町の入口「野上」は現在も交通の要衝、JR東海道新幹線・JR東海道本線・国道21号・名神高速道路が集まってくるところです。
壬申の乱の大海人皇子 不破郡関ヶ原町字野上 |
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野上行幸宮址 |
「野上行幸宮址(のがみあんぐうあと)」 |
国道21号「野上」信号を南へ入り、 |
ガードをくぐり、そのまま真直ぐに100mほど進むと案内標識があり、 |
斑女の観音堂のある真念寺は国道21号「野上」信号の東にあります。
その東に「野上行幸宮址(のがみあんぐうあと)」の標識があります。
壬-02-1.斑女観音堂 不破郡関ヶ原町字野上 |
斑女観音堂(真念寺)は国道21号から大海人皇子行宮跡への入口にあります。 |
斑女観音堂 |
斑女観音堂がある「真念寺」 |
斑女観音堂(真念寺)から200mほど国道21号を西へ進むと「桃配山」がある。
壬-03.壬申の乱桃配山 不破郡関ヶ原町野上 海抜 96m |
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桃配山 |
この「桃配山」に最初に陣を張って勝利を招いた「大海人皇子」にあやかって
徳川家康は「関ヶ原の合戦」で縁起を担いで最初に陣を置きました。
現地から西軍の石田三成本陣「笹尾山」は見えませんが、
家康はここに最初に陣を置く事に意義があったのです。
桃配山には「徳川家康最初の陣址」の碑もあります。
(詳しくは「関ケ原合戦古跡」の徳川家康最初の陣址」を参照して下さい)
次は古代「和蹔邑」(不破郡松尾・藤下)と呼ばれた地区へ
承編、和蹔邑周辺 |
壬申の乱 第三部、不破関があった「和蹔邑」(わざみむら=不破郡松尾・藤下地区)
和蹔邑(わざみむら=不破郡松尾・藤下地区)には13箇所の史跡があります。 |
「関ケ原合戦古戦場跡」も合載した順路
下記の地図は「関ケ原合戦古戦場跡」もついでに巡りたい方のために、
この地区にあるの五か所の関ケ原合戦陣址も掲載してあります、参考にしてください。
最初は、「壬-04不破関
北限土塁址」です。
国道21号「松尾」信号を北へ入りJR東海道本線を渡ります。
国道21号「松尾」信号脇の標識 標識には次の様にあります。
見落としてもあまり関係ない案内のように思えます。 |
国道21号「松尾」信号
国道21号関ケ原松尾地区の押しボタン信号を北折し、JR東海道線の上を横断して最初の三叉路を
西へ曲がり70m程進むと南側に「松尾墓地参道入り口」と「不破関
北限土塁址」の標識が見えます。
標識から50mほど進むと「不破関 北限土塁址」の案内板があります。 |
壬-04.北限の土塁跡 不破郡関ヶ原町字松尾 概算高度 135m |
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土塁の真ん中を駐車場への道が縦断しています。(残念!) |
北限の土塁跡 |
不破関北限土塁址 |
「東北角の土塁跡」は「北限の土塁」の更に南東にあり標識も道もない場所にあります。
壬-05.東北角の土塁跡 不破郡関ヶ原町字松尾 (車両侵入不可) |
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上図では壬-05「東北角の土塁跡」です。 |
「東北角の土塁跡」 |
東城門跡は国道21号「松尾」信号へを北西に100mほど入り変則四差路が「壬-06東城門跡」です。
壬-06.東城門跡 不破郡関ヶ原町字松尾 |
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上図では壬-06「東城門跡」です。 |
国道21号「松尾」信号を北西に100mほど進むと変則四差路へ出ます。 |
美濃不破関
東山道(とうさんどう)と東城門 |
次の「壬-07鍛冶工房跡」へは「壬-06東城門跡」から南へ250mほどの西側に説明板あります。
壬-07.鍛冶工房跡 不破郡関ヶ原町字松尾 概算高度 125m |
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鍛冶工房跡 |
途中に福島正則」陣跡案内版 |
美濃不破関「鍛冶工房跡」 |
「鍛冶工房跡」と云われる あたり一帯 |
井上神社へは「鍛冶工房跡」から更に南へ約300mのJR新幹線下を通り
直ぐ西へ曲がると直に鳥居があります。
JR東海道新幹線の下をくぐって西へ曲がると正面に「井上(いのがみ)神社」の鳥居が見えます。 |
壬-08.井上神社 不破郡関ヶ原町松尾 |
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上図では右下部の「壬-08井上神社」です。 |
「壬申の乱」と「天武天皇」 |
境内の裏にはJR東海道新幹線の柵が見えます。 |
「井上神社」から「南限の土塁跡」へは、再びJR東海道新幹線の下へ戻り直に西へ進みます。
西へ進み突当りを北へ |
北へ120m程進むと左側(西側)に標識と案内板が立っています。
壬-09.南限の土塁跡 不破郡関ヶ原町字松尾 概算高度 127m |
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美濃不破関 南限の土塁跡 |
目の高さで確認できる土手らしきものが続きますが足場が悪く適当な所で確認画像を撮りました。 |
次に中山道まで戻り「壬-10.不破関庁跡と天武天皇の兜掛石と沓脱石」へ
壬-10.不破の関庁跡 不破郡関ヶ原町松尾 |
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「不破の関庁跡天武天皇の兜掛石と沓脱石」 |
中山道沿いの北側に標識あり |
場所は個人のガレージの裏 |
標識のある家の庭を奥へ入りガレージの脇の細い道を更に奥へ抜けると広い畑に出ます。 |
不破関資料館模型 |
不破関庁舎跡 |
不破関庁舎跡と兜掛石 |
兜掛石 |
沓脱石 |
次の「不破関守跡」は中山道を西へ50m程の南側にあります。
壬-11.不破関守跡 不破郡関ケ原町松尾26 海抜 126m |
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「大宝令」によって「日本三関」が設置される。 「不破の関」は軍事・警察の機能を兼備する重要な拠点でしたが、延暦八年(789年)七月、 岐阜県教育委員会が昭和49年から五次にわたって実施した不破の関跡発掘調査によって「不破関」の概要が |
中央辺りにあります。 |
町・県史蹟 不破の関守跡 |
「不破関守跡」から中山道を西へ50mの二股路の北側に「不破関資料館」登り口があります。
壬-12.不破関資料館 不破郡関ヶ原町松尾 |
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入場料は大人・子供とも100円 |
入場券には「不破関庁」復元模型図が描かれています。 |
「不破の関」は軍事・警察の機能を兼備する重要な拠点でしたが、延暦八年(789年)七月、 岐阜県教育委員会が昭和49年から五次にわたって実施した不破の関跡発掘調査によって |
不破関 |
新旧中仙道道標 不破郡関ヶ原町松尾 |
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「左 旧中山道」 「右 中山道 大谷吉隆之墓」 |
右の「中山道 大谷吉隆之墓」へ進むと「不破関資料館」があります。
碑の左の「旧中山道」の下り坂を70mほど下ると左側に「不破の関西城門跡」があります。
壬-13.西城門(にしきもん)跡と 不破郡関ヶ原町藤下 概算高度 119m |
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地図中央辺り |
不破関西城門と藤古川 |
10-4.藤古川 不破郡関ケ原町松尾26 海抜 111m |
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「藤古川」 画面中央奥に見えるのは「国道21号線」 |
関の藤川(藤古川) |
藤古川の「藤下橋」を渡るとすぐに「若宮八幡神社」の道標があります。
道標に従い南へ150mほど入ると「弘文天皇」をお祭りした神社があります。
ここで関の藤川を渡ります
大谷吉隆の陣跡と墓への道は東海道本線横断が危険のため |
壬-14.藤下(とうげ)の若宮八幡神社 不破郡関ヶ原町藤下 概算高度 119m |
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「藤下(とうげ)若宮八幡神社本殿」 また明治十二年の修理の際の「棟札目録」では、 |
「若宮八幡神社道標」から西へ50mほど坂を上がると道標と「矢尻の井」(地蔵堂)があります。
壬-15.「矢尻の井」と 不破郡関ケ原町藤下 海抜 123m |
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地図の中央辺り |
国道工事で枯れた泉 しかし国道工事の際、水脈を途切れさせ泉が枯れてしまいました。 |
矢尻の池(井) 箭先(せんさき=矢先)地蔵堂 |
「大谷吉隆の墓」 |
「大谷吉隆墓 七丁」 |
この地蔵堂で道は二つに分かれていますが右が中山道です。
先ほどのふたつに分かれた道が、また一緒になる所に道標があります。
道端の標識の概算緯度経度
北緯 | |||||||||
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|||||||||
東経 | |||||||||
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概算高度 121m |
新しい道路工事により碑の位置や経路が変わります |
三本杉登り口の概算緯度経度
北緯 | |||||||||
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東経 | |||||||||
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概算高度 124m |
標識板に沿って細い道を進むと階段があるのでそれを登ります。 |
壬-16.自害峰(じがいみね)の三本杉 不破郡関ケ原町藤下 海抜 126m |
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位置は地図の中央下中間あたり |
町天然記念物 自害峰の三本杉 |
町天然記念物 自害峰の三本杉 |
黒血川 |
麓へ戻り西へ100mほど進みます
国道21号横断 概算高度 127m |
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国道21号線を渡って180m程進むと左手(北側)に幟と階段があります。 |
08-1. 西.大谷吉継陣跡、中山道登り口 不破郡関ケ原町山中宮上 海抜 m |
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この階段から「大谷吉継の陣址」と「墓」へ行けますが |
階段の両側に「宮上 大谷吉継陣址」碑と「若宮八幡神社」碑があります。 とりあえず階段の先まで画像で案内します。 |
「若宮八幡宮」右(東)に「宮上
大谷吉隆陣地 四十間」の古いの碑があり |
中山道へ戻ります。
中山道を更に西へ100m程進むと「高札場跡」の案内板があります。
17.間の宿高札場跡 不破郡関ヶ原町山中 概算高度 129m |
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中山道の北側にあります。 |
「中山道 間の宿山中」(高札場跡)は地図の中央辺り |
高札場跡 |
「間の宿山中」碑から更に西へ80m程進むと「玉地区」へ向かう「東海自然歩道」口へ着きますが
先に中山道西の「鶯の滝」と「常磐御前の墓」まで行き再びここまで戻ります。
18.黒血川(口) 不破郡関ヶ原町山中 |
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黒血川 |
「玉地区」への道へ曲がらず西へ50mほど進むと北側に地蔵堂があります。
地蔵堂の向かいから「鶯の滝」の音が聞こえてきます。
19.鶯の滝 不破郡関ヶ原町山中 概算高度 123m |
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鶯の滝 |
「17.間の宿山中」碑から100mほど西へ進むと「鶯の滝」があります。 |
さらに西へ進みJR東海道新幹線の下を通り80mほどの右側に「常磐御前の墓」の標識があります。
20.常盤御前の墓 不破郡関ヶ原町山中 概算高度 133m |
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常磐御前の墓 |
芭蕉と化月坊の句碑 |
この他、壬申の乱で「大海人皇子」の美濃国多(おおい=大井)領の荘官であった
「大炊(おおい)家之墓」は大垣市青墓の円興寺山の中腹にあります。
「大炊家之墓」源朝長之墓の近くにあり一段低い場所にあります。
(詳しくは「大垣城周辺の城・砦・陣屋址」の「22.円興寺城址」
または、「美濃中山道後編」の「源朝長の墓」の巻を参照して下さい)
20-1.大炊家之墓 大垣市青墓町 |
大炊家の墓 平安後期には、青墓の長者「大炊兼遠」(1105〜1161年)の |
先ほどの「18黒血川口」まで戻り
JR東海道本線の下のトンネルをくぐり、北へ進み「玉倉部」の激戦地へ向かいます。
18.黒血川(口) 不破郡関ヶ原町山中 |
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黒血川 |
17.間の宿山中碑から70mほど西に玉地区へ抜ける「東海自然歩道」口があります。 |
途中東への三叉路へ来ます。
この道を東へ進むと「大谷吉継陣址」と「大谷吉継の墓」いけます。
このまま北の「玉倉部地区」へ向かいます。
大友軍が大海人軍を急襲した道 |
道の脇を「黒血川」が流れています。 |
転編、玉倉部邑 周辺 |
壬申の乱「転編」は「玉倉邑」(玉倉部地区)です。
ここは壬申の乱の激戦地で「黒血川」の源です。
しかし、古代の激戦の地も今は静かな山間の郷です。
壬申の乱「玉倉部」地区の名所旧跡図 |
ここには壬申の乱より古く日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折
伊吹山の「荒神」を退治され休息された「腰掛石」や荒神の降らせる大氷雨により
高熱を発せられた疫を冷まされた「玉倉部清水」があります。
国道365号「玉」信号を西へ曲がり、1.5km程進むと北側に |
入ると道が見えますが、この道らしきものの右の草原を進みます。 |
何故かトンネルがあります。 |
トンネルをくぐり左へ |
壬-21.日本武尊腰掛石 不破郡関ヶ原町玉 概算高度 172m |
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日本武尊(やまとかけるのみこと)の腰掛台 |
壬-21「日本武尊腰掛岩」は中央左 |
日本武尊(やまとかけるのみこと)の腰掛台 |
荒神が居ると言われた伊吹山(1377m)
伊吹山 |
国道365号を更に西へ400m程進むと「関ケ原鍾乳洞入口」の看板があります
「関ケ原鍾乳洞」案内板は左下部あたり |
この看板に従って北(右)折します。 |
北折して300m程の広い場所に出ます。
ここがかって旧陸軍の火薬庫があった場所です。
22.旧陸軍火薬庫跡 不破郡関ヶ原町玉 |
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歩哨立場 |
22「旧陸軍火薬庫跡」は「関ケ原鍾乳洞」案内板の上あたり |
旧陸軍火薬庫跡 |
あちらこちらに遺構が点在します。 |
更に北へ150m程進むと「玉倉部の清水」があります。
壬-23.玉倉部の清水 不破郡関ヶ原町玉 概算高度 176m |
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町史跡
玉倉部(たまくらべ)の清水 関ケ原鍾乳洞は画面鳥居の横に入口があります。 |
壬-23「玉倉部の清水」は中央左端あたり |
日本武尊奮跡碑 |
清水の水が以前より少なくなったように思います。 |
日本武尊の伊吹山荒神伝説 |
「居醒の清水」 この伊吹山荒神伝説が隣の滋賀県にもあるので紹介します。 『「居醒(いさめ)の清水」と呼ばれ、「古事記」、「日本書紀」にも記載されている |
「玉倉部の清水」から県道229号を東へ戻り途中交差点から「広域農道」を北へ1.5km
激戦の地「玉倉部大橋」へ
壬-25.玉倉部大橋 不破郡関ヶ原町玉 |
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玉倉部大橋 |
壬-25「玉倉部大橋」は中央上部あたり |
大友軍はこの玉倉部から不破の藤下へ奇襲を掛けましたが激戦の末、 |
玉倉部大橋から国道365号を東へ250mほどの北側の山に「玉神社」があります。
壬-26.玉 神 社 不破郡関ヶ原町玉 概算高度 170m |
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立派な神社ですが縁起碑などはありません |
壬-26「玉神社」は中央上部あたり |
国道側の下の階段は普通ですが、その上の階段は |
十一面観音堂の向かいにこの地方で有名な |
このあたりのお金持ちの民家 この辺りから下流にかけては、度重なる洪水に悩まされ屋敷を高い石垣の上に作り難を逃れることにしました。 お金持ちほど高く積み上げ増したが、現代の車社会では何かと苦労が多いようです。 水屋 お金のない家は離れなど一部を高くして、そこに炊事場、座敷、貴重品を置き軒下には舟を吊し万一に備えました。 |
墨俣宿まで戻り長良川の堤防まで上ります。
墨俣の渡し跡は定かではありませんが墨俣宿と上宿の中間辺りと思われます。
美2-38 墨俣の渡し跡 安八郡墨俣町上宿 |
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渡し跡は洪水や河川改修のため、それらしきものは何もありません。
長良川を渡って羽島市へ入ります
美2-39 長良川渡船
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渡しの跡あたりの長良川です。 |
街道コラム
再び美濃路へ戻ります。
橋の東に東小熊地蔵堂があります。
東小熊地蔵 羽島市小熊町東小熊 |
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親鸞聖人御旧跡碑 羽島市足近町直道 |
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中央の桜の陰に碑はあります |
縦是東五丁の文字 |
阿遅加神社 羽島市足近町直道 |
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足近北宿の 羽島市足近町南宿 |
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右 寿のまた道(墨俣道) |
道標 「西方寺」の前を通り境川の堤防に上がると道標があります。 位置が変わったのか「左たけはな道、右すのまた道」と左右が反対です。 追分け地蔵 道標の反対側には今にも壊れそうな小屋に中に古びたお地蔵様が二体並んでお祀りしたありました。 |
足近直道の 羽島市正木町須賀 |
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坂井の道標と辻地蔵 別の道から堤防に上がった所に西方寺への道標が立ち、脇に「右、笠松、西方寺」「すぐ墨俣、大垣道」と刻まれた辻地蔵二体があります。 またお地蔵様 先のお地蔵様より立派なお堂の中に安置されています。 脇に大きな木が茂っています。 |
堤防を更に西に進み西小熊まで来ると、太神宮と秋葉様があり、まもなく「小熊の渡し跡」へ出ます。
「小熊の渡し」蹟は河川改修などで昔の面影はありません。 ここから長良川を渡ると「墨俣宿」へ入り「美濃路」は更に進んで「垂井宿」へと向かいます。 また、そこから美濃路と言うよりも、鎌倉時代の官道「鎌倉街道」として保存されています。 詳しくは「中山道探訪14-3”鎌倉街道と墨俣一夜城”」で紹介します。
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親鸞上人の旧跡西方寺 羽島市足近町直道 |
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親鸞の旧跡西方寺 羽島で最古の寺。 もと太子堂でしたが後に親鸞上人に教えを受け浄土真宗に改めました。 多数の寺宝があります。 阿遅加(アジカ=足近)神社 |
足近町 (羽島市足近町) |
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調査中