美濃路七宿のうち「稲葉宿」

美濃路七宿

のうち稲葉宿

愛知県稲沢市稲葉

尾張国

美濃路ー4
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美濃路ー6
清洲宿へ

 

番号 由緒地 地名
-01 禅源寺 愛知県稲沢市西町1丁目
-02 津島道の道標 愛知県稲沢市稲葉3丁目
-03 稲葉宿問屋場跡        〃
-04 稲葉宿本陣址 愛知県稲沢市小沢2丁目
-05 小沢一里塚 愛知県稲沢市小沢4丁目
-06 国府宮一の鳥居 愛知県稲沢市御供所町6
-07 国府宮 愛知県稲沢市国府宮3町目
-08 長束正家邸跡 愛知県稲沢市長束町沙弥

 

 

 

美濃路は「武士墓」から「西御堂」信号を過ぎ、「中島道場北」信号の一本手前の道を南へ曲がります。

美濃路ー10/15
「中嶋宮」から「長束正家邸跡」までをご案内します

美濃路全区間を15区間に分けてご案内します。
(本図は10区間目です)

 

 

 

途中広い道を横断して、道が狭くなって進むと「稲沢上下水道庁舎」に突き当たります。

「稲沢上下水道庁舎」を右(東)へ曲がり「県道14号線岐阜稲沢線」へ出ます。

「県道14号線岐阜稲沢線」を南へ(中央分離帯があるため車では無理です)進み信号「石橋南」の三叉路を
左(東)へ曲がり、県道136号線に沿って「県道133号線」の「稲葉口信号まで進み、左(東)へ曲がります。

稲葉宿

宿場の概要

尾張藩領、 宿高 不明、 

宿長 8町21間(約911m)、人口 1、572人、 家数 336軒、 

旅籠 8軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、 問屋場 3ケ所、          

萩原宿から 一里半(約5,9km)(高木一里塚)

清洲宿まで 一里半(約5,9km)(稲葉一里塚)

              稲葉宿
 稲葉宿は、尾張藩が編纂した地誌『尾張志』には、「稲葉村より東の方小沢村まて町屋連り問屋本陣旅宿等備はれり。(中略)当駅萩原起の三駅とも慶長五年(1600)より宿並となりしよしいへり」と記しています。
 しかし、残念ながら起・萩原・稲葉の慶長五年(1600)の開宿を裏付ける「伝馬朱印状」は残っていません
 宿役は初め稲葉村だけで勤めていましたが、寛永年間(1624〜1644)に小沢村が加わりました。
 「稲沢」の地名は、この2村の合併により、明冶二十年(1887)に生まれました。
 天保十四年(1843)の稲葉宿は、家数336軒、人口1,572人、旅籠屋8軒(中2軒・小6軒)、本陣・脇本陣各1軒、問屋場3ヵ所がありました。
 本陣の小沢村の原所次右衛門の家は、門構・玄関付で建坪133坪(約440u)、脇本陣の東町の吉田吉又の家は、門構・玄関付で建坪70坪(約231u)でした。
 問屋場が3ヵ所あり、稲葉村西町の西問屋場は原氏と伊東氏が交代で勤め、稲葉村東町の中問屋場を伊東氏、小沢村の東問屋場を原氏があずかり、1問屋場2日交代で勤めていたといいます。
 宿場の長さは、8町21間(約911m)でした。
 本陣から西の稲葉村と小沢村の境に高札場があり、中町には津島への道標から南へ道が伸びていました。
 街道沿いから北へ入った所に禅源寺があり、将軍徳川家光が宿泊し、朝鮮通信使一行の洪世泰(滄浪)が書いた「禅源寺」の扁額や、琉球使節副使の西平親方(向和馨)が書いた漢詩の書が残されています。

 

美5-01 禅源寺

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

15

12.8

東経

136

47

29.2

                金華山禅源寺
 臨済宗の寺院で、永和二年(1376)太清禅師が創建した。
 将軍徳川家光が上洛の折、宿舎となり、家光の病が治癒した事を喜んで、表道具に御紋の使用を許された。
 当時は2丁南にあったが、同年、砂の噴出しで殿堂が破損し、現在地に移った。
                         (現地説明板より)
愛知県指定文化財
勅使門 一棟 江戸時代 ほか

 

一つ目の信号を過ぎ、稲葉宿へ入り信号を過ぎたあたりの右(東)側の電柱の陰に「つしま道」碑があります。

美5-02 「つしま道」道標

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

14

58.5

東経

136

47

34.1

電柱の陰で見落とします。

「右 つしま道 五里」とあります これが津島街道で南へ延びています。

稲葉宿問屋場跡の少し手前の北側に「紅葉山寶光寺」があります。

稲葉宿問屋場跡は街中の少しカーブした左側の家の軒下に隠れたように建っています。

美4-03 稲葉宿問屋場跡

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

14

59.2

東経

136

47

35.8

                稲葉宿問屋場跡
 四ツ家追分から分かれたこの美濃路の稲葉宿は、慶長五年に開設せられ本陣・脇本陣の外 小沢、東町、西町には問屋場が置かれて人馬の往来、物資の輸送の他に供されたが、文政五年頃には人足十五人、馬四十五頭が常備せられ助郷の制もあった。 ここは東町問屋場跡であり、宿役人東氏の住居である。
                 昭和58年9月 日  稲沢ロータリークラブ建之
          稲沢地区に伝わる昔話 稲葉宿のけいば(稲沢町)
 東海道と中山道を結ぶ道として、美濃街道があります。長束町から本町を通り、萩原町へと続いています。
 特に本町付近は、稲葉宿と呼ばれ、旅籠屋やお店が立ち並び、たくさんの人々で、にぎわっていました。
 「おい!伝蔵さ、問屋場で聞いたら、今日は、お殿様の行列も、にゃーそうだ。(無いそうだ)それに畑仕事もちょーど終えゃーたし、こなゃーだの勝負をつけよみよみゃーか」 「よっしゃ、弥平さ、今日こそは勝ったるぜ。じゃあ五助さや、源作などにも話して、今日やるか」 ここは、稲葉宿のなかでも、すこし西の方へよった、今の高校へ入る信号のあたりから、ここからもうひとつ東の、信号あたりまで、馬を走らせ、競争するのです。
 この話を聞いて、もう馬を引いた人たちが集まって来た。 そして、馬の鼻をなでたり、丸く歩かせたりして、用意を始めた。
 「そろそろ始めるか」と、誰かが叫んだ。 そして竹ざおにむしろをかけて、道を通せんぼした。東の方のゴールの先も同じように通せんぼにした。
 競馬が始まった。
 ビッシ。ビッシという、ムチの音とともに、六頭の馬が一斉に、土ほこりをたてて走り出した。
 「それッ、走れ、もっと走れ!」稲葉の人たちや、ちょうど通りかかった旅人たちも、道の端から、大声で声援をおくった。
 「やった、やったぞ。伝蔵さに勝ったぞ」と弥平さは飛び上がって喜んだ。いっぽう負けた伝蔵さも、大声でくやしそうに云った。「おしかったなあ、もうちょっとだったのに。よし。今度はぜったいに勝つからな、、弥平さ」
 このようにして、だれが言いだすことなく、馬を走らせ、お互いに競いあいました。
 昔、馬は乗物であるとともに、田畑を耕すのに、必要なものでした。

美4-04 稲葉宿本陣跡

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

15

01.2

東経

136

47

49.1

   

 

 

美4-05 稲葉一里塚跡

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

14

52.3

東経

136

47

53.9

   
   

 

 

美4-06 国府宮一の鳥居

愛知県

北緯

35

14

40.9

東経

136

48

30.0

   

 

美4-07 国府宮

愛知県

北緯

35

14

40.9

東経

136

48

30.0

 

 

 

 

美4-08 七曲縄手

愛知県一宮市萩原町西御堂

北緯

35

15

47.9

東経

136

46

36.7

   
   
   

 

 

美4-09 長束正家邸跡

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

14

40.9

東経

136

48

30.0

                  長束 正家
 長束 正家
(なつか まさいえ/ながつか まさいえ)は、安土桃山時代の官僚・大名であり、豊臣政権の五奉行の一人である。
 初め丹羽長秀に仕えたが、天正13年(1585)に豊臣秀吉の奉公衆に抜擢され、丹羽氏が大減封処分を受けると豊臣氏直参の家臣になった。
 高い算術能力を買われて財政を一手に担い、豊臣氏の蔵入地の管理や太閤検地の実施に当たった。
 九州の役・小田原の役・文禄・慶長の役の際には、兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍した。

 文禄4年(1595)に近江水口5万石を拝領し(のち加増されて12万石)、五奉行の末席に名を連ねる。秀吉没後は石田三成方に与し、家康打倒の謀議に参加、水口にて会津征伐へ向かう家康の暗殺を謀るも失敗した。

 慶長5年(1600)に三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵する。初め伊勢の安濃津城を攻略し、関ヶ原の戦いでは毛利秀元・吉川広家とともに南宮山(岐阜県不破郡)に布陣したが、広家の妨害のため、秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると敗走した。水口城を目前に、追手の池田輝政・長吉に包囲され、弟直吉と共に自刃した。享年39という。

首は京都三条橋で晒され、財産は池田長吉に奪われたという

岐阜県不破郡南宮山の毛利秀元陣跡にある関ヶ原合戦陣形図

         長束正家陣
 主戦場の関ケ原(現関ケ原町)から7kmも離れた栗原(現垂井町)に同じく西軍の「長曽我部盛親軍」と陣を張った。
 後に傍観軍といわれ帰城後両者とも自害や斬首されている。

栗原城址を探していて迷い込んだ広場の山側にきれいな桜があったりました。

その広場に長束家正陣跡がありました。
長束家正陣跡
長束家正は、文禄四年近江水口五万石の領主となり、
ついで十二万石荷加増され、従四位下侍従に叙任
慶長三年(1598)七月、五奉行の一員に列せられました。
同五年の関ケ原合戦では西軍に属し、九月十五日の決戦では千五百人のへいとともに
ここ境野に陣し、合戦前には東軍の池田輝政軍との間に銃撃戦があったとされます。
その後、光成方の敗北を聞くと水口城に帰城しましたが、池田長政に欺かれて自害しました。
(垂井町教育委員会)

広場の隅には朽ちた神社がありました。
帰ってから画像を見ると傍に石碑が映っていましたので
碑文を確認すればよかった残念に思っています。

                     長束 正家
 長束 正家
安土桃山時代の官僚・大名であり、豊臣政権の五奉行の一人である
 初め丹羽長秀に仕えたが、天正13年(1585)に豊臣秀吉の奉公衆に抜擢され、丹羽氏が大減封処分を受けると豊臣氏直参の家臣になった。
 高い算術能力を買われて財政を一手に担い、豊臣氏の蔵入地の管理や太閤検地の実施に当たった。
 九州の役・小田原の役・文禄・慶長の役の際には、兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍した。

 文禄4年(1595)に近江水口5万石を拝領し(のち加増されて12万石)、五奉行の末席に名を連ねる。
 秀吉没後は石田三成方に与し、家康打倒の謀議に参加、水口にて会津征伐へ向かう家康の暗殺を謀るも失敗した。

 慶長5年(1600)に三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵する。
 初め伊勢の安濃津城を攻略し、関ヶ原の戦いでは毛利秀元・吉川広家とともに南宮山(岐阜県不破郡)に布陣したが、広家の妨害のため、秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると敗走した。
 水口城を目前に、追手の池田輝政・長吉に包囲され、弟直吉と共に自刃した。享年39という。

 首は京都三条橋で晒され、財産は池田長吉に奪われたという
                        (現地 愛知県稲沢市稲葉町3丁目 の説明板より)

 

 

岐阜道分岐点

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

15

47.9

東経

136

46

36.7

   
   
   

 

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